正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百

 岩波文庫122ページ「知而故犯(ちにこぼん)なりとも有仏性なるべし」
 頭の中の理屈としてあれこれ言うことができる、あるいは言わないと仏教を広めることができないから言わざるを得ないのだけれども、そのように行動する、生きるということが「仏性が有る」ということになる、そう言うしかない。
 問題なのは現実の中で瞬間瞬間一生懸命生きていくこと。だけど、理屈は理屈として必要。でも理屈に振り回されてはいけない、囚われてはいけない。
 何度も書いているけど、理屈に囚われる、主義・主張に囚われると人間は残酷になる。歴史上、そういうことが繰り返されている。自分の正しさが絶対で、それに反する人間を徹底して攻撃する。これは恐ろしいけど、変わらないですよね。
 SNS上での攻撃とか。自分が正しいと思えるから他人を攻撃できるんだろう。
 最近も首相の辞任会見について歌手の人が同情するようなことを言ったら「死んだ方がいい」と言った人がいたとかいう。自分の主義・主張はアンチ首相なので、そういう立場ではない人に「死んだ方がいい」は、いくらなんでも言い過ぎだと思う。
 でも頭の中の考えに囚われれば、人間は抵抗もなくそういうことができる。
 極端な主義・主張は目立つし、格好良く見えたりする。
 だけど、正しさとはなんだろうか?私は大宇宙の真理に従って普通に生きることだと思っている。普通だから目立つことはない。当たり前のことを言ったり、やったりすることになる。何だか今の世の中普通じゃないことをする人を妙に評価し過ぎなんじゃないか?と思うけど。
 私は坐禅して普通に生きていきます。