正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百七十二

 岩波文庫119ページ「狗子仏性、なにとして無をまつことあらん」
 大宇宙の真理は言葉として言い表せない何かなのだから、犬に仏性が有るとか無いとか言う必要はない。
 言葉とか概念・観念にこだわりすぎなのではないか、と思うことが多い。そりゃ何にも考えないで好き勝手するのは馬鹿としか言いようがないけど、概念・観念にこだわり過ぎるのも、やはり馬鹿なんじゃなかろうか。
 「正しさ」というのを勝手に作り出して、他人を攻撃したりする。
 正しさ、正義の名の下に、人間は残酷なことを嬉々としてやる。コロナに罹った人を苛めて引っ越しさせたりしたりするという。
 狂気の沙汰としか思えないけど、それが「正義」だと思っているのだろう。
 犬に仏性が有るか無いか、観念論で悩みに悩む、何の意味があるのかな?
 現実の中で、瞬間瞬間生きていく。坐禅していればなんとかなると思っている。
 この間、沢木耕太郎さんのインタビュー記事を読んだ。沢木耕太郎さんは「恐れずに、気をつけて」とおっしゃっていた(と思う)。
 現実に生きるという点で、私はわかるような気がする。