正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百七十三

 岩波文庫119ページ「趙州いはく、「為他有業識在(いたうごっしきざい 他に業識の在ること有るが為なり)」」
 仏性無であるのは、「他に業識の在ること有るが為なり」と趙州は言う。
 業識とは、水野氏の脚注では「生命現象として、無意識から動き出す最初の精神作用」となっている。仏教をきちんと学んだことのない私には、正直、どういうことなのかよくわからない。
 西嶋氏は、過去の経験が積み重なって作られる意識というように説明されていたと思う。こちらは実感としてわかる気がする。仕事をしていても「これまでこうしていた」「私は経験上こうする」と言って、頑なに動かない人はかなりいる。今の状況はそれでは駄目だと言っても受け入れない。
 仕事じゃなくても、慣習に縛られるのは珍しいことではないと思う。
 私自身、過去に縛られていると思うときがある。それを気付かせてくれるのが、坐禅だ。
 過去を活かすことが、重要なのは言うまでもないけど、過去と現在の違いを認識せず、「過去はこうだった」とか「過去に例がない」なんていうことは、結構あると思う。
 過去が今の瞬間の現実を見えなくしてしまう。
 犬に仏性が有るとか無いとか、そういうこれまでの概念論・抽象論に引きずり回されるから、肝心なもの「大宇宙の真理は言葉では言い表せない何か」がわからなくなり、どうでもよい概念論・観念論に陥ってしまうのだろう。
 コロナだって、本当に今大事なのは何なんだろう?病院が機能しなくなることなのかな?
治療薬、ワクチンがなければ感染は拡がるしかないだろうし、経済を止めれば暮らせなくなってしまう。休業させたら、どういう人にいくらあげればいいのだろう?財源はあるのかな?休業認定して補償する事務は誰がやるんだろう?言葉で格好いいこと言っても現実をどうするのかな?それは別の人が考えればいいのかな?