正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百九十九

 岩波文庫121ページ「しかあれば、半枚学仏法辺事(はんまいがくぶっぽうへんじ)ひさしくあやまりきたること日深月深(にっしんがっしん)なりといへども、これ這皮袋(しゃひたい)に撞入(とうにゅう)する狗子なるべし」
 仏法の一部をちょっとだけ学ぶ(頭の中で観念的・抽象的に)ことを長いこと間違ってやってきたことを月日を重ねたこと、これは仏性が入り込んだ現実の犬そのものであるのだ。
 どうも私の力ではうまく言い表せないけど、たとえ、核心ではないことをやっていたとしても、それはそれで現実そのものなのであり、単純に「怪しからん、間違ってる!」と言い募るようなものではない、ということだと思っている。非難ばかりしても仕方がない。
 私も間違ったことをたくさんしてきた。今もしている。けれど、それはそれで現実だ。開き直っているのではない。だから、間違わないようにしよう、少しは良くなるようにしようと思うというか、思える。
 仏教は、だから私にとっては生きるよすがになっている。正法眼蔵がなければ死んでいた。
 だから、坐禅し続けます。