正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性そのニ十五

 岩波文庫78ページ「「時節若至(じせつにゃくし)」の道(どう)を古今のやから往々におもはく、仏性の現前する時節の向後(きょうこう)にあらんずるをまつなりとおもへり。かくのごとく修行しゆくところに、自然(じねん)に仏性現前の時節にあふ」
 ここに引用したところは、世間一般が普通考えている考え方。このあと、道元禅師はこれを否定していかれる。
 「時節若至」は「時節もし至れば」と読むのかな、この言葉(「道」は「言葉」)を昔の人々も今の人々も往々にして思うことは、仏性が現れる時が今後あるだろうからそれを待つと思っている。このように考えて修行していくと、自然に仏性が現れる時に出会う。
 普通は修行して仏性を得ると考えるが、これまでにあったとおり、仏性=衆生=悉有なのだから、修行したら現れるというようなものではない。道元禅師は発心(ほっしん)真実を知りたいと思ったとき、坐禅した瞬間、その人は「仏」だとおっしゃっている。
 日本人は、艱難辛苦に耐えて、苦行の末、悟りを開くとか神秘的な能力を身につけるとかいう考え方が大好きだ。好きなこと、やらねばならないことについて努力するのは結構なことで否定する気は全くない。
 しかし、不必要な非合理的な下らない精神論になりがちであることに、注意しなければならない。特に宗教がかったことには要注意だ。単なる金儲けの道具にしている輩がいるので。体育会系の色々な問題も私には根っこはここにあるように思えてならない。
 人間は自分の人生を自分で生きて行くしかない。毎日を普通に本来の面目で生きていく以外に価値はない(何度も言うけど)。
 このことが分からずに、自分が偉いと勘違いしたり、権威や権力を振るう人間は、私が最も嫌悪する人々だ。