正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その十四

 岩波文庫75ページ「覚者知者はたとひ諸仏なりとも、仏性は覚知覚了にあらざるなり。いはんや諸仏を覚者知者といふ覚知は、なんだちが云云(うんぬん)の邪解(じゃげ)を覚知とせず、風火の動静(どうじょう)を覚知とするにあらず。たゞ一両の仏面祖面、これ覚知なり」
 物質の動き、世の中を把握している人、知覚している人は、真理を体得している人々かもしれないが、仏性=全ての存在は覚知覚了などと言葉で表現できるものではない。ましてや、真理を体得している人々をものを知覚する人という場合の「覚知」は、誤った理解をあれこれ言っている人たちが言う「覚知」ではない。実際の一人二人という具体的な真理を体得した人々を覚知というのだ。
 道元禅師は、これまでのところでも、これからのところでも、痛烈な否定、痛烈な批判をされている。道元禅師は自分が体得したものが、釈尊直系の真の仏教、仏道であると確信されていたからである。
 坐禅無しに頭の中で考えたに過ぎないものを徹底して否定されていると思っている。
 だからといって、言葉で伝えなければ、真の仏教は伝えられない。だから正法眼蔵をお書きになった。また、正法眼蔵の中では経典も多く引用されている。坐禅は不可欠だが、経典など文字で書かれたものの価値も認めておられる。
 今回取り上げたところでも、「覚知」を観念ではなく、実在の人々として説いておられると私は理解している。
 今の世の中、知識、観念に偏重しているように思えてならない。現実は瞬間瞬間、切羽詰まった、血みどろのものではないか。一言、一動作で命を失うことだって十分にあり得る。
 こうすれば成功する、幸福になれるというような本やら、セミナーやら多いですな。最近はAIが導き出したとかいうものまで登場している。まあ、本読んで知識を持つのはいいけど、現実に自分がどうするかは、坐禅しないと、どうしようもないと私は思っている。本に書いてあることに振り回されちゃ、逆に苦しいと思うけど。
 人それぞれ自分の人生をいきるしかないから、私がとやかく言うことではないですけどね。