正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その十一

 岩波文庫74、75ページ「まさにしるべし、悉有中に衆生快便難逢(しゅじょうかいびんなんふ)なり。悉有を会取することかくのごとくなれば、悉有それ透体脱落(とうたいとつらく、だつらく)なり。」
 「悉有中に衆生快便難逢」のところは、岩波文庫の水野氏の脚注では「悉有と衆生は同じものなので、うまく出会う関係にない」となっている。西嶋氏の提唱では「生きておるすべてのものは、いつも都合が良いというわけにはいかない」となっている。
 私は漢文をちゃんと勉強していないし、仏教の学問も知らない。だから、どちらが正しいか判断できない。 
 だだ、岩波文庫73ページで悉有=仏性=衆生と書いてあるように読めるので、水野氏の脚注も理解できる気がする。
 いずれにせよ、頭の中であれこれ考えたところで、現実には悉有=衆生だから悉有があってそれに出会うなんてことはないし、西嶋氏が提唱されているように人間が生きるというのは苦心惨憺するということでそのことに意味があるとも言えると思う。苦心惨憺するのは嫌だと言っても、楽には暮らせませんぜ。何も心配することなく、毎日心穏やかなんてあり得ないことを望むから逆に苦しむことになる。
 そのように悉有をとらえれば、大宇宙の存在すべては、透きとおったように明白であり、あれこれ頭の中で考えたことがすべて抜け落ちた存在であるということ、それをきちんと理解、体得しなければいけない。
 私が書いていることを読むと、私が立派な人間と勘違いされてしまうと恐れている。
 私は、仕事でも家庭でも、いや、ありとあらゆる場面でおろおろあたふたしている人間。人間関係において、上手く生きれないなあ、と思っている。
 そんな自分は坐禅にすがって辛うじて生きている。おろおろあたふた、上手く生きれないと感じつつ、しかし大宇宙は「透体脱落」ありのままの存在としてあると坐禅して実感している。その中で今どうやって生きるかは坐禅が教えてくれる。だから、何とか生きていられるのだと信じている。