正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その十二

 岩波文庫75ページ「仏性の言(ごん)をきゝて、学者おほく先尼外道(せんにげどう)の我(が)のごとく邪計(じゃけ)せり。それ、人にあはず、自己にあはず、師をみざるゆゑなり。」
 仏性という言葉を聞いて、仏教を学んでいる者の多くは、仏教ではない(先尼とはバラモンのことらしい)人々の言う「自分自身」であると間違って理解している。それは、本当の人間をわかっていない、自分とはなにかもわかっておらず、真理を体得した師に教えを受けていないからだ。
 先尼外道の我とは、言葉の上の観念的な「自分」のことだと思っている。仏教が対象とするのは現実の実在の人間。そして坐禅していれば、大宇宙の中に実在している自分自身と向き合うことになる。本来の面目であり、回向返照(えこうへんしょう)である。
 本を読んだり、人の話を聞いたりして、知識を得ることは当然のこととして必要。だけど、読んだり、聞いたりしたことを、そのまま「こうだ!これが正しい!」と無邪気に言う人がたくさんいますよね。現実がどうなっているのかよく知らないのに「こうせねばならん!」と威張っている人もたくさんいる。
 まさに「人にあはず、自己にあはず」そのもの。坐禅しての大宇宙の中の自分という感覚は、自分を取り巻く状況も含めた感覚。「これは駄目だな」「これでいいな」「こういうことがわかってないな」ということが感得される。
 それをどのようにして、関係者に伝えるかはロジックとコミュニケーションの能力の話。「人にあはず、自己にあはず」なのに、理屈をこね、相手を言い負かそうとしている人が、多いなあ、と感じている。
 坐禅して、「人にあひ、自己にあふ」こと無くして、突き進んで行って大丈夫ですかね?地べたを這いずり回って、現実を知る(坐禅しながらね)ことをもっともっと重要視しないと駄目だと思いますが。
 最後の「師を見ざる」のところは私は、師に付いて教えを得ていない。この点で「お前は道元禅師の教えに従っていない」と言われれば、それはそのとおり。
 何回も書いたが、対人恐怖気味で、適応障害とまでは行かないのだろうけど、人の言動がかなりストレスになってしまう。その中で仕事をしなければ生活できないから、疲れるし、時間もない。納得できる「師」をさがすのは、現実には、少なくとも現在は不可能だし、これからも難しいと思っている。
 これを読んでいただいている方は、その点をご承知いただきたい。