正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十四

 岩波文庫123ページ「しかあれば、両頭倶動するに妄想なし、妄想にあらずといふか、たゞ仏性は妄想なしといふか」
 ということであるのなら、切れたみみずの二つ両方が動いているというのは、目の前の現実であり妄想など関係ない、妄想ではないと言っているのか、ただ純粋に仏性は現実、事実であって、妄想などないと言っているのか。
 「妄想」について、こうなのかどうなんだ、と道元禅師はたたみかけてこられる。
 前にも何回か書いているけど、仏教を神秘的なものにしてはならないと思っている。仏教は大宇宙の真理を体得することだと思っているけれど、それは普通の人、当たり前のことができる人になることだと思っている。
 苦しんでいる、悩んでいる人に訳のわからない修行や数珠とか壺を薦めて、霊験があるとか神秘的能力が身に付くとか言って金を巻き上げる、まあひどい悪人たちがいると思う。
 けれど一方で、そういう奴らに騙されてしまう人が後を絶たないのは、「仏教とは何か」が分からなくなっているのも原因だろう。
 私は、今、色々苦しい、辛いと思う状態にあるけど、今はそういう時期なので、坐禅しながら、今やれることを瞬間瞬間やるしかない。そんな簡単に苦しみや悩みから逃れられるもんか。たった一冊本を読んだら、解決した?だったら、そんなものは元々悩むに値しないものだったんだろうと思う。
 ただ、金儲けの上手い奴らは、それが大変なものに思わせるテクニックを持っている。
 坐禅して、普通に生きていきましょう。