正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その五十四

 岩波文庫87ページ「仏性かならず成仏と同参(どうさん)するなり。この道理、よくよく参究功夫(さんきゅうくふう)すべし。三二十年も功夫参学すべし。十聖三賢(じっしょうさんげん)のあきらむるところにあらず。衆生有仏性(しゅじょううぶっしょう)、衆生無仏性(しゅじょうむぶっしょう)と道取する、この道理なり」
 仏としての本質は、仏となったとき(坐禅したとき)に同時に現れる(同参)、実現する。この道理は、何十年もかけて取り組まなければいけない。十聖三賢(仏に至るまでの菩薩の過程にいる人たち)つまり仏となっていない人たちにはわからないものである。衆生無仏性とか衆生有仏性とかという議論は、結局のところ「仏性かならず成仏と同参するなり」という道理に行き着くものである。
 菩薩の過程は水野氏の脚注によると五十の位があるとのこと。私は、その1つ1つが何なのか知らないし、知るつもりもない。私は仏教学者になる気はない。学問を否定しているのではない。私個人は興味がないということ。私の人生には限りがある。生きていくため生活人として働かねばならない。その中で如何に生きるかのみが問題であって、そのために正法眼蔵を読み、坐禅している。仏教哲学の微に入り細に入るものをすべて勉強する時間はない。もし、仏教の恐ろしくたくさんあるすべての経典を読み、膨大な用語を全て理解しなければいけないのならば、仏教は普通の人の救いにはならない。
 そして、経典が恐ろしくたくさんあること、用語が膨大であるため普通の人には手におえないことを利用して、何だか分かったような分からんようなことをもっともらしく主張して、悩んでいる人、困っている人に近づいて、金を巻き上げようとする奴らがいる。困ったもんだ。坐禅してればいいんです。
 話は脱線するけど、物事をどんどん細分化したり、場合分けしていくというのはインド人の特性何ですかね。因果の法則なども場合分けしている。インド人がプログラミングとかシステムに能力を発揮するという話を聞いたことがあるけど、このインド人の特性と関係しているような気がする。
 閑話休題。結局はただ1つ坐禅を続けろということなのです。