正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その五十五

 岩波文庫87、88ページ「成仏以来に具足(ぐそく)する法なりと参学する正的(しょうてき)なり。かくのごとく学せざるは仏法にあらざるべし。かくのごとく学せずは、仏法あへて今日にいたるべからず。もしこの道理あきらめざるには、成仏をあきらめず、見聞せざるなり」
 仏に成る(坐禅する)ことから仏性が、この心身に実現するのだ、それが仏法だと勉強することが正しいことである。このように学ばないのなら、それは仏法ではない。このように学ばないのなら(坐禅という行動がないのなら)、仏法が今日まで伝わるはずがない。この道理を明確に理解しないのならば、仏に成るとはどういうことか理解できないし、見たり聞いたりすることもない。
 ここのところは、坐禅なくして仏教はあり得ない、ということをおっしゃっている。
 私も毎朝坐禅している。坐禅しているから、毎日平穏、間違いはしない、なんてことはない。元々怒りっぽいので腹はたつし、自分の言動に落ち込んだり、過去の過ちに胸をかきむしられる思いも起こる。
 けれど、坐禅のおかげで、極端に振れたり、混乱したりすることは、少なくなったと思う。現実は現実として受け止め、今この瞬間にやるべきことができるようにはなってきたかな、と思っている。
 毎日を普通に生きる、「こうしたい」と思うことがおかしなことではない、というのは、本当に難しい。坐禅なしにできるとは、私には思えない。
 ドラッグストアで、トイレットペーパーは1世帯1ケースと言っているのに、夫婦で示しあわせて複数買っている奴がいる。人間としてまったくどうしようもない。
 こういう1つ1つの人々の行動が世の中がどうなるかを決めることを、理解しなければいけない。日常の1つ1つの行動がきちんとできないのに、美しい立派な世の中が実現するなんてことはあり得ない。日々の行動、日頃の心がけのみが未来を決定づける。
 そのことが、今、疎かになっていると思う。どんなにきれいごと言ったって、やっていることが、おかしければ、どうにもならない。
 坐禅して本来の面目に戻りましょう。