正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話十八

 仏教の修行は出家して艱難辛苦に耐えられる選ばれし人がやるもの、そういう人しかできないみたいな見方が多いように思う。でも、それでは普通の人は仏教の修行ができず救われないことになってしまう。それでは意味がないと私は思う。
 厳しい修行に耐えた人が偉くて、その人の言うことをありがたがって聞いて「いい話だ」と関心してどうなる?偉い人を拝むとご利益がある?そんなのは私は大嫌いだ。自分で修行しなくてどうする。
 道元禅師は優れた指導者(善知識(ぜんちしき))に従って修行しなければならないとおっしゃっている。それはそのとおりだと思う。私も本来そうしなければならないと思う。しかし、これまで書いた私の性格、経験から、優れた指導者なんているんだろうか?変な奴に関わるとろくなことにならない、という思いが強い。その点では道元禅師の教えに背いている。申し訳ありません。
 また、厳しい修行って何だ?滝に打たれたり、ぼんぼん火を燃やしてる前でお経唱えるのが修行?冷水を浴びると自律神経にはいいという話はあるし、火の前にいれば汗かくからサウナみたいなもんだ。それだけのことじゃないの?たしか、プロ野球選手が火の前で修行している記事を読んだ記憶がある。その選手は覚醒剤で逮捕されちゃったけど。年に1回とか何回かそんなことしても普段の生活が駄目なら駄目な結果にしかならない。
 普通の人が普通の生活をしながらできる修行でなければ、意味がない。正法眼蔵では以下のとおり書かれている。
 岩波文庫37ページ「仏法を得(え)すること男女貴賤(なんにょきせん)をえらぶべからず」仏法を体得するのは男女平等、人間すべて平等だ。選ばれし人なんてことはない。
 38ページ「世務(せむ)は仏法をさふとおもへるものは、たゞ世中(せちゅう)に仏法なしとのみしりて、仏中(ぶっちゅう)に世法(せほう)なきことをいまだしらざるなり」ここは私には難しかった。世間一般の社会生活をすることは仏法の邪魔、妨げになると思う者は、一般社会、俗世には仏法がないということは知っているが、仏の世界、仏の教えの中には世間一般の社会の法(教え)はないことを知らない、となる。言葉として前半は分かるが、後半が難しかった。仏の世界に一般社会の法はないとしたら、仏法は社会から隔絶したものになってしまって役に立たないのではないか?と思ったのだ。
 でも、提唱を読んで、坐禅して、今は分かったと思っている。
 つまり、仏の世界とか世間一般の世界とか分けて考えるのは理屈。実際には大宇宙は1つしかない。その中で修行=坐禅すればいいだけのこと。自分の生活をしながら、坐禅する時間を作ればいいだけのこと。いつでもどこでもできる。
 ついでに書くと、今後出てくるが、道元禅師は坐禅する場所について、冬暖かく夏涼しい静かな部屋で風が直接体にあたらない所がよいとされている。厳しい環境を選んで坐禅せよとはおっしゃっていない。もちろん、そういう場所がないから坐禅しないというのはだめだけれど。