正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その二

 岩波文庫127ページ「南嶽大慧(なんがくだいえ)禅師のいはく、「修証(しゅしょう)はなきにあらず、汚染(わぜん)することえじ」

 南嶽懐譲(なんがくえじょう)禅師(六祖大鑑慧能禅師の法を継いだ方)がおっしゃったこととして「修行とその結果としての経験はないことはない、しかし汚すことはできない。

 ここでいう「汚す、汚染」とはなにか。坐禅した瞬間に仏となる。つまり修行(坐禅)と仏となること分けて考える、別のものとすること、修行した末に仏になる(よくいう「悟りを開く」)などという考え方は、仏道を汚すことだということだと思っている。これは西嶋和夫氏が書いておられることだけどその通りだと思う。

 修行の末に悟りを開くなんて、偉業というか神秘的な境地というか、そんなものにしてしまうと、一般の人が日常生活を送ることから遊離してしまう。役に立たないと思う。