正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十七

 岩波文庫36ページ「いまだ戒(かい)を受けず、また戒をやぶれるもの、その分(ぶん)なきにあらず」ここは、戒律を守ることが清らかな人生を送るために必要という文章に続くところ。仏門(ぶつもん)に入るためには、受戒(じゅかい)という儀式が必要とされているらしい。私は当然ながら受戒は受けていない(対人恐怖気味で、さらに坊さんは信じてないので)。

 正法眼蔵のこの文章を読んで安心した。つまり「戒を受けず」でも坐禅すればその効果はあるとなっているからだ。また「戒をやぶれるもの」戒律を守らなかった、破ったとしても坐禅すればその効果はあるとなっているからだ。

 戒律とはどんなものかは、色々な書物に書いてあるので、それらを読んで下さい。ただ、そんなにすごいものではなく、盗むなとか、殺すなとか、嘘をつくなとか人間として、ごく普通のことだと思っている。では私は戒律を完璧に守っているかと言えば、そんなことはない。ただ、坐禅をするようになってから、ああしまったと後悔する度合いは深くなった、気をつけなければいけないという気持ちは強くなったと思う。そのことを繰り返して、少しずつだがまともな人間になってきたように思う。大きな戒律の枠の中で生きていけるようになった、今後もとんでもないことはしでかさないだろうと思えるようになった。だから坐禅は救いであり、そして「安楽の法門」なのだと思っている。

 なお、道元禅師が出家を重要としているのは事実。世俗の暮らしをしながらでは仏教、仏道には専念できないだろう。ただし、ここにあるように出家しなければ不可能とはおっしゃってはいない。今の世の中では出家して生活はできないのではないか。出家して専念できる環境にある人はすればいい。ただ、普通の生活をしている人(出家しない、できない人)が救われないのでは意味がない。全財産を渡して出家しろなんていうのは、その団体の経営のためであり、宗教、少なくとも仏教とは何の関係もないと思っている。

 それに寺に生まれたから出家するというのは、「出家」なのだろうか?たしか石原慎太郎氏が「仏教(宗教だったかな?)は死ぬような目にあわなければ必要としないものだ」という趣旨のことを言っていたように記憶している。私も以前書いたようなことがなければ正法眼蔵を手にし坐禅することはなかった。人生で本当に苦しんだこともなしに出家した人に仏教が分かるのだろうか?純粋に真理を知りたいと仏教を志す人がいないとは言えないかもしれないけど。

 今、寺の経営は厳しいと聞く(本当かどうか確認していないので事実ではないかもしれないけど)。地方では人口減少の影響はあると思うが、一般論として、経営が厳しいというのは「社会から必要とされていない」ことを意味する。社会から必要とされない事業は淘汰される。「宗教と事業を一緒にするな!」と怒られるだろうね。批判しているようにとられるかもしれないが、私の言いたいところは、坐禅が世の中に理解され広まるためには、やはり寺、仏教界に期待したいということ(私は寺には関わる気は一切ないけど)。