正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十六」

 岩波文庫33ページ「かの霊性(れいしょう)(筆者注:身の中にあるもの=心)は、この身の滅するとき、もぬけてかしこにむまるゝゆゑに、ここに滅するとみゆれども、かしこの生あれば、ながく滅せずして常住なりといふなり。かの外道が見(けん)、かくのごとし」私なりに、簡単に言うと、身(肉体)は滅んでも=死んでも、心は死なずにどこかに常にあるというのは、仏教ではない、ということ。

 道元禅師は、岩波文庫34ページで「仏法にはもとより身心一如(しんじんいちにょ)にして性相不二(しょうそうふに)なりと談ずる」と書いておられる。私なりの理解は、身体と心は一つのもの(分けることはできない)であり、性(本質、中身)と相(現れているもの、外側)は別のものではない、同じもの、ということ。

 よくテレビなどで「心霊体験」とか扱って、死んだ人の霊が存在するという番組を作っているが(よく扱われるということは視聴率が取れるのだろうね)、道元禅師は明確に否定しておられる。身心は一つのものだから、一方が滅びても一方は存在するなんてことはない。さらに34ページでは「生死(しょうじ)はすなはち涅槃(ねはん)なりと覚了(かくりょう)すべし」つまり、生きて死ぬことが、「非常に落着いた最高の境涯(西嶋氏)」と理解しなければいけない、とされている。

 私は道元禅師がおっしゃっていることを信じる。別に「霊」を信じる人を否定する気はない。私は道元禅師に従うというだけのことである。余談になるが「科学的に霊の存在などあり得ない」という人もいるようだが、確かに科学は驚異的に発展し、進化しているだろう。しかし、科学が解明しているのは大宇宙のほんの一部、ひとかけらなのだと思う。そのレベルの科学が証明できないからと「霊」を否定するという態度は、いかがなものかとは思う。繰り返すが私は霊魂の存在云々の議論にはまったく関心はない。道元禅師を信じ従うだけである。

 念のため付け加えるが、科学の進歩は道元禅師の主張の正しさを証明するものと思っている。これは西嶋氏も同様の主旨のことを書いていると思っている。

 道元禅師は、正法眼蔵の中で「生死」という巻を書かれておられるので、生きる、死ぬということは、私もまたそこで触れたいと思う。ただ、生死に関して簡単に思っていることを書けば、「生きている間は毎日こつこつ生きていけばいい。死んだらどうなるなんて考えても時間の無駄」ということになる。生きてるうちは、生きてればいいので、死ぬときは死ねばいい。つべこべ言うことはない。死ぬとき「自分は一生懸命生きたな」と思えればいいと思っている。他人がどう思おうと知ったことではない。関係ない。

 「性相不二」は好きな言葉だ。外見、表面をきれいに装っても、例えば口ではもっともらしい立派なことを言っていても、人間的な中身、行動は下劣な奴は腐るほどいる。こういう奴は、結局、いよいよ重大な決断をしなければいけないとき、やってはいけないことでも目の前に利益がちらついたとき、その本性が行動となって表面化する。性相不二である。誤魔化せるものじやない。

 普段の行動が下らない、下劣な奴、「相」が駄目な奴は、性根も腐っている。普段の行動の積み重ねが人生であると思っているので、道にゴミや吸殻を捨てる、ゴミを分別しない、歩きスマホはやめましょうと言われてもやめない、などなど、些細なことがきちんとできない奴は、人間として駄目だ。性相不二なのだ。

 そして、そのように自分を戒めているつもりだ。できてるかな?