正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十五

 岩波文庫31ページ「むかしの人師(にんし)、この法(坐禅)をつたへざりしことは、時節のいまだいたらざりしゆゑなり」ここのところは、中国には古くから仏教経典が伝えられ、仏教が伝えられているのに、何故菩提達磨(ぼだいだるま)が中国に渡り坐禅を伝えて初めて真の仏教が伝わったというのか、昔の仏教の師といわれる人達は何故伝えなかったのか?という問いに対する答えである。

 私は「時節のいまだいたらざりしゆゑ」に実感がある。以前書いたように、私の主張が受け入れられなかったのは「時節のいまだいたらざりしゆゑ」だったな、と思うからである。

 私は「時節」は大事だと思っている。

 今の世の中を見ても、グローバル化をどんどん推進し、その方向で発展するという流れかと思っていれば、アメリカはアメリカ第一主義を強烈に打ち出し、イギリスはEUから離脱するという。その他にも、反グローバルというか元々の自国民の利益を優先すべきだ(移民問題など)という主張が台頭してきているように見える。

 所詮人類は同じようなものだから、皆で仲良くすればいい、グローバル化、国境を超越するというのが、今後の方向だろうと単純に私は思う。しかし、今は「時節いたらざる」時期なのだろう。

 人類はまだ国、民族、宗教の枠を越えられるまでには至っていない、というのが現実だろう。そして、その枠を守るためには軍事力が必要なレベルに人類はいる、というのが現実だろう。

 しかし大きな流れはグローバル化のような気がする。歴史を見ても行ったり来たりしながらも大きな流れはある。

 坐禅して、自らをつかみ、世の中の現実を明らかに把握して、日々の生活を一生懸命やるしかない。一人一人の正しい行いの積み重ねのみが世界を正しい方向に向かわせるのだから。