正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十四

 岩波文庫28ページ「仏法には、修証(しゅしょう)これ一等なり。今も証上(しょうじょう)の修(しゅ)なるゆゑに、」29ページ「修(しゅ)の証(しょう)なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし」仏法は修行と真理を体得すること(あまり使いたくないが悟り)は同じものである。修行は一生続けなければならない、だから修と同じものである証も一生続く、「証上の修」である。つまり、証は目的、ゴールではない。

 こうすれば悟れるぞという怪しい団体があるようだが、それは仏法とは関係ない。金儲けの手段に過ぎない。私の記憶では、やくざ者が七日間だか何日間か穴の中に閉じこもって(それを荒行と称して)、それをやり遂げ悟りを開いたとか言って教祖になって信者を集めたことがあったように覚えている。体力のあるやくざだったんだね。結局、その教祖様は若くてきれいな女性の信者をレイプして逮捕されてしまったと覚えている。それが、最初から目的で頑張ったのかも。すごい修行をしたら悟りを開いた立派な人になれるという誤った考え方が蔓延しているからこういうことが起きる。

 坐禅にゴールはない。生きている限り坐禅し続けなければいけない。西嶋氏は「自転車のペダルをこぎ続けないと自転車は倒れてしまう」と表現しているが、そのとおりだと思う。

 坐禅と切り離して考えても、人間は結局のところ日々の積み重ねしでしかないと思う。仕事で結果を出すのも、人から信頼されるのも、日常の一つ一つの積み重ねの上にしかない。
 過去業績を上げた、過去表彰されるような立派なことをしたとしても、今現在がだらしのない、下らないことをしているのなら、その人間は下等な人間である。「証上の修」を怠るから、そのようなことになる。しかし、「昔俺はこのような成果を上げた」とか「俺は賞を取った」とか過去にすがって、現在を疎かにしている人間の何と多いことか。今この瞬間下らないことをしている奴は、下らない奴でしかないのだよ。過去なんて過ぎ去ってしまって存在しないのだよ。人間の価値は今この瞬間にしかないのだよ。言っても分からないだろうけどね。