正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十

 岩波文庫20ページ「諸仏の境界(きょうがい)は不可思議なり。心識(しんしき)のおよぶべきにあらず」21ページ「不信の人は、たとひをしうともうくべきことかたし」

 20ページのところは、真実に達した人々の状態は考えることができない。人間の感情や意識がおよぶものではない、ということだろう。

 つまり、頭であーだこーだとこね繰回しても無理、無駄ということ。頭で考えに考えて、どんどん迷路に迷い込んでしまう人が多いように思える。

 もちろん、知識は必要だし、論理的思考のトレーニングも必要だと思う。だけど、それで全て解決できるほど世の中は単純ではない。「俺は論理的思考に優れている」という独り善がりに陥っている人は多いと感じる。

 だから坐禅が必要なのだ。

 21ページのところは、信じない人には教えても理解を得ることは難しい。

 ここは色々なことを含んでいると思う。

 宗教は信仰なので、信じないのであれば始まらない。絶対的に信じなければ信仰ではない。だから、信仰の対象が異なる、宗教が異なると相互理解は無理だろうと思う。せいぜい、お互いの存在は認めて喧嘩しないようにしましょうというところだろう。

 だから宗教問題を抱える国の政治は大変だ。

 イスラム過激派だって自分達はコーランの教えに従って正しいことをしていると固く信じているだろう。この解決は宗教上の議論では解決しないだろうね。キリスト教国は、あいつらは殺していいと思っているようだし。

 以前にも書いたが、私の経験から言えば、私の主張を聞きたくない、理解したくない人には、何をどうやっても無理。

 案外、身近にも多いよ。「私は嫌!」「話にならん!」「つべこべ言うな!」よく聞く台詞。これも理屈で説得なんて無理だ。

 坐禅して正法眼蔵を読んできて、周囲が理解しない場合どうするか、自分なりにやり方があると思えるようになった。一つは誰も支持してくれなくても、敵を作っても主張し続ける。一つは一旦退いて時期を待つ。

 どちらにするかは坐禅が教えてくれる。