正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その六十五

 岩波文庫136ページ「「人体」は四大五蘊(しだいごうん)なり、大塵ともに凡夫の究尽するとこにあらず、聖者(しょうじゃ)の参究するところなり」

 「人体」は四大(地水火風)五蘊(色受想行識)という物質とその物質を受けての人体の反応からできている。それらすべては坐禅をしていない人間には分かるものではない。坐禅した人(発心し真理・真実を知りたいと坐禅している人)が理解できるものなのである。

 ここでは、人間というものを物質的・生理学的に解説しておられると思っている。考えてみれば当たり前のことで、人間の体は固体、液体、それらの相互反応によるエネルギー、気体からできていて、それらに人体は様々な反応をする(五蘊)と理解している。

 坐禅していると自分の今の状態が分かる、そう思っている。

 引用したところだけ読むと、凡人はだめで、聖者のような立派な人でなければいけない、と読めるかもしれないが、私は、単純に聖者=坐禅をしている人と思っている。

 道元禅師の説かれていることは、だから私にとって救いになる。坐禅していればいいのだ。

 そりゃ、坐禅していたって病気にもなる、コロナに感染するかも知れない、失敗もするし、過去の過ちが消えることはなくずっと付きまとう。坐禅は魔除けではないのだから。そして超人になるためのものではないのだから。けれど、坐禅していれば今この瞬間を普通に大宇宙の真理に従って行動していくことはできる。坐禅していれば、そうなると信じている。