正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その十

 岩波文庫128ページ「発菩提心なり、赤心片々なり、古仏心なり、平常心(びょうじょうしん)なり、三界一心なり」

 仏祖の法をならうことが、発菩提心であり、赤心とは真実の心、ありのままの素直な心それらが瞬間瞬間片々として現れており、それが昔から仏と言われた方々の心であり、普通の心(平常心)であり、欲界(意欲の世界)、色界(物質の世界)、無色界(行動の世界)という三つの世界が我々の一つの心そのものなのだ。

 とにかく坐禅すれば瞬間瞬間のありのままの心が菩提心、大宇宙の真理・真実を知りたいという仏の心になるということだと思う。

 平常心(びょうじょうしん)、一般には「へいじょうしん」と言っているようで、「平常心を保て」とか言っている。しかし、平常心(びょうじょうしん)は「普通の心」坐禅をして身心がバランスしたときの心。そのときには智慧つまり直観が働いて大宇宙の真理に従った行動ができる。坐禅せずに「平常心、平常心」と唱えても、その言葉に縛られてしまってどんどん変な方に行ってしまうのではなかろうか。大体、人間は焦るとか慌てるとか、悲しむとか、怒るとか、がっかりするとかという感情から離れられないに決まっている。それをなくすのが「平常心」だとしたら、それはあり得ない。「こうすれば平常心になれますよ」なんて言うのは詐欺じゃないかと個人的には思う。焦っているときは焦っているとき、怒っているときは怒っているとき、それはそのまま受け入れればいいと思う。坐禅した身心ならば、その感情をどう扱えばよいか教えてくれる。

 学術会議について色んなひとがわーわー言っているけど、何だか感情論みたいに聞こえる。学術会議に入らないと学問ができない訳じゃなかろうし、国がお金を出しているなら政府の方針に反する学者なんか選ばないだろう。学術会議の外側で政府の方針は間違っていると主張し続ければいいだけじゃないの?と思う。そういう学者が活動できているんだから学問の自由は守られているんじゃないの?そう思うけど、私が馬鹿なのかな?

 坐禅して「平常心」で議論してほしいと思う。