正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十三 

 岩波文庫26ページ「代々(だいだい)の緒祖(しょそ)、みなつねに坐禅をもはらす。これをみるおろかなる俗家(ぞくけ)は、実をしらず、ひたゝけて坐禅宗といひき。」代々の真実を得た人達はみんな坐禅を熱心にやった。これを見た愚かな世俗の人々は、真実を知らずに坐禅宗(禅宗)と言った。 
 道元禅師は、釈尊の教えは一つしかないので、○○宗、△△宗などと色々な教えがあるように分別するのは間違い、従って坐禅宗(禅宗)と称するのも間違い、とおっしゃっている、と理解している。
 宗派論争も触ると面倒くさいことになりそうなので、触らない。ただ、道元禅師は上記のとおりおっしゃっているのは事実だとだけ言っておく。
 ここでは「実をしらず」について書きたい。
 今は「言葉だくさん」の時代だと感じる。色々な人が色々なことを言う。言論は自由でなければいけない。だから、色々なことが言えることはいいことだ。
 けれど「実を知らず」の言論が多いのも事実だと思う。また「実を知る」のは難しい。しかし、実を知らなければ、判断を誤り結果として悪い結果となる。
 では「実を知る」ためにはどうするか。お察しのとおり坐禅するしかない。
 自分の考えを正しいと固執する、異なる考えを受け入れない、そういう人達をたくさん見てきた。
 「実を知らず」は(坐禅しなければ)自分では分からない。自分では分かっていると思っている。だから厄介だ。特に組織のトップが「実を知らず」だと大変なことになる。このとき、トップに対して「あなた実を知らずですよ」と言うのは、とても難しい。そんなこと言ったらトップは怒るだろうね。
 本当はトップに対して、そういうことを言う人はトップにとって役に立つ人なのだろうけど。
 トップは孤独だ。だからトップの人こそ坐禅して、本来面目(ほんらいのめんもく)、自受用三昧になってもらいたいと思っている。