正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十二

 岩波文庫24ページ「又しるべし、われらはもとより無上菩提(むじょうぼだい)かけたるにあらず」
 人間にはもともと最高の真実真理が備わっている、と西嶋氏は提唱している。私もそうだと思う。。
 けれど坐禅(修行)しないと、本来備わっているものが現れない、機能しない。
 仏教は究極的な楽観主義という言い方もできるかもしれない。
 一方で坐禅しなければ駄目という意味では徹底的に厳しいかもしれない。
 私も坐禅してきて、変なことをしなくなってきたと思っている。
 理屈でどんなに「悪いことをしてはいけない」と教えても、それを頭の中で「理解」しても、実際にそのようにできるか疑問だ。
 大体「悪いこと」って何か?ということすら曖昧だ。時代や立場で「悪いこと」などコロコロ変わっているよね。大義名分がたてば、人殺しだって正義だ。戦争が典型的な例。昔正しいとされたことが、今は駄目なことになることなど一杯ある。スポーツしているときは真夏でも水飲んではいけないと言われてたけど、今そんなこと言ったら大馬鹿者だ。私が中学生のころ、朝礼で校長が「私は野球をやっていたが、どんなに喉が乾いても気力で我慢した」と威張っていたが、今ならただのお馬鹿さん。この校長は実際とんちんかんなお馬鹿さんだったけど。
 だから、今「正しい」とされているものが本当に正しいとは断言できない。正しいのか正しくないのかは坐禅した身心で感じるしかない。坐禅が嫌でも今「正しい」とされていることを疑う姿勢は必要だと思う。
 犯罪を犯した人も本来は「無上菩提」は備わっている。しかし、坐禅しなかったので、おかしくなってしまった。こう書くと、いくら何でも坐禅万能と言い過ぎと言われるだろう。だけど、そう信じている。
 凶悪な犯罪が起こると、ワイドショーなどのコメンテーターとかいう類いの人が「何故このようなことが発生したのか、この犯人は何故このようなことをするに至ったか解明する必要がある」などと言っている。正に正論だ。だけど、現実的ではないと私は思う。
 何故か。本当に解明しようとするなら、犯人の生い立ちをずっと詳細に追跡する必要がある。また、親はどのような人物だったのか、どのような育て方をしたのか、何故そのような育て方をしたのか、等々、深く細かく調査しなければならないだろう。それを誰がやるの?心理学とか精神医学とか教育学とか色々な分野の優秀な専門家がチームであたる必要があるだろう。そして長期にわたる。また、犯人のいうことが事実かどうかどうやって確かめるのか?教師、同級生、近所の人を探し出して話を聞くのも大変だが、応じてくれるのか、応じてくれたとしてその人達の言っていることは本当のことかどうやって確かめるのか?親に至ってはもっと難しいだろう。
 そして、その専門家たちの報酬はどうするのか?長期間優秀な人を拘束することが可能か?優秀な人の数は限られているだろうから、どの事件を扱うかも問題になるだろう。
 などなど、とても現実的とは思えない。どうすればいいのか、私にはわからない。現実的な抑制策は専門家の人達、政治家に委ねるしかないのだと思う。私は日々坐禅しながら、誤ったことをしないよう生きていくしかない。世の中の人一人一人の行動の積み重ねなくして世の中はまともにならない。
 最後に一言。時代とともに正しさは変わると書いたが、絶対的な大宇宙の真理は厳然として存在する。そしてこの真理は坐禅によってしか体得できないのだ。