正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その六

 「自狂にゑうて」について補足したい。
 坐禅し始めた頃、頭の中に私を攻撃する人間の顔や声、白眼視や無視の姿、それに対する私の憤激などの感情、これらにより坐禅しながら体が動いたり、叫びそうになったと書いた。
 もし、その姿を他人が見ていたら、坐わりながらもぞもぞ動いたり、口を開けたりする気味の悪い人間に見えたろう。
 部屋の中には私が一人ぽつねんと坐わっているだけで、私の体が動いたり、叫びそうになる原因は私の頭の中で展開されていて実際には存在しないのだから。
 私の考え方は正しかったが、しかし、あのときの私は自分の考えに振り回され、疲弊し落ち込み怒りに震えていた。これも「自狂にゑうて」ということだと思う。
 坐禅していないときでも、仕事で資料を作っているときでも、通勤のときでも、頭の中には同じ光景が渦巻いていた。そのときは誰も何も言っていないのに。存在しないものに振り回されていた。
 頭の中のものに振り回されてしまう。これは坐禅して気付いたことである。坐禅はそのことを気付かせてくれた。
 ちょっと話は違うが、人間は頭の中で考えたことを現実を無視して、あるいは見ようとしないで(見たくないということもあるかもしれない)、「正しい」と思い込む動物だと思う。頭の中だけで考えれば、そのロジックは完璧で美しい。怖いのは、その「正しい」ことをそのまま実行してしまうことだ。ヒトラーもそうだろう。福祉施設で大量殺人が起きたが、犯人にとっては、「正しさ」を実行したに過ぎないだろう。
 坐禅は頭の中のものに振り回されないようにしてくれる。