正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その七

 岩波文庫15ページと16ページ。15ページ「打坐して身心脱落(しんじんだつらく)することを得よ」16ページ「本来面目(ほんらいのめんもく)現(げん)ずるとき」
 まず身心脱落。引用したところは「坐禅して身心脱落を得なさい」ということでいいと思う。問題は「身心脱落」。身体と心が脱落するって何だ?脱落って何から脱落するんだ?最初、まったく分からなかった。坐禅を続け提唱を読んでいるうちに、心身脱落とは自分自身に戻ることだと思うようになった。前回書いた「自狂にゑうて」いない本当の自分である。坐禅していると「今自分は主観的になりすぎているな」とか「自分の考えでいいな」とか「自分が一番気になっているのはあれか」とか、突然感じることがある。それが、自分自身に戻った、本当の自分に戻った、身心脱落だと思っている。だから坐禅をやめてはいけない。続けないといけない。少なくとも私は自分自身が分からなくなってしまうから。このことと関係するのが「本来面目」
 「本来面目」。今は分かったと思っている。上記のとおり、坐禅することは自分自身と向き合うというか、自分のことが分かる、感じることということだと思っている。自分のことが分かると周囲のことも明瞭になってくる。そうなれば、当たり前のことを当たり前にやれる、普通のことを普通にできる。だけど「普通のこと」とは何かは言葉では説明が難しい。坐禅したときに体で感じたこととしか言えない。 
 他人の評価や出世や名誉や利益(お金)に夢中になり振り回されている状態は本来面目からかけ離れる、見失っている状態。極端に言えば「正気を失っている状態」。私が感じるのは本来面目を見失っている人が多いということ。組織や社会の中で本来面目を見失うのは珍しいことではない、むしろ多いと思っている。私が出向した会社のように。マスコミで報道される事件も同じ。
 身心脱落や本来面目を「悟り」という言葉で説明しようとするむきがあるが、まったく違うと思う。悟るとか悟らないなんて言葉を使うのは見当違いだと私は思っている。身心脱落も)本来面目もどちらも坐禅したときの状態にすぎない。そして普通のことができるようになることだ。「悟り」などという訳の分からないものではない。「悟り」という言葉を商売のネタにしている人々がいる。しかし悟りを開いて超人になることを仏教は説いていないと私は理解している。スーパーマンになって空でも飛ぶのか?普通のことが普通にできることこそが人間にとって重要なことで、そしてとても難しいことなのだと思う。だから坐禅する。澤木氏も西嶋氏も「坐禅していること」が「悟り」だと言っている。私もそう信じて疑わない。