正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その一

 まず「現成公案(げんじょうこうあん)」とは何か?から始めたい。岩波文庫53ページの水野弥穂子氏の脚注では「現実はあるがままで何不足ない真実であり、万物は分を守って平等であること」とある。仏教を学術的に学んだ人、宗門の人なら理解できるのかもしれないが、私にはちんぷんかんぷんです。私に理解できないだけで水野氏に責任はない。ごめんなさい。 
 西嶋氏は提唱の中で次のように言っておられる。「現成とは、現に成る、現実に出来上がっている」「公案は、公府の案牘(こうふのあんとく)を略したもので、政府のおふれ書き=法律、法」「法」は仏教では「現実の世界そのもの」という意味と「この世の中を支配している決まり、規則」という意味がある。従って「現成公案」は「現に我々の目の前にあるこの宇宙、世の中がどんな様子をしているか」を狙いとしている、とされておられる。
 私は、これなら理解できる。西嶋氏の考え方が学会や宗門に受け入れられているかどうかはどうでもいい。私は私が生きるために正法眼蔵を読んでいる。理解できない、納得できないものは放っておくしかない。
 宇宙、世の中、現実がどうなっているかをつかむのは難しい。本当のところ、真実、真理はどうなっているか、分かっていないというのが、世の中一般ではないか?
 悪い奴だと言われていたが、しばらく経ったら本当はいい人でした、なんてことは山のようにあるよね。いい人だと持ち上げられていたが、一転、屑のような奴だと罵られるなんてことも山のようにあるよね。結局本当のところは分からないから、その時々の雰囲気で上げたり下げたりしている。そんなことで右往左往している。得意になったり失意に沈んだりしている。そんなふらふらした人生ではたまらないと私は思う。
 以前にも書いたが、大宇宙の真理は存在する。しかし、それは頭の中でこね繰り回して分かるものではない。坐禅正法眼蔵を読んで初めて体得できる。体得である。理屈ではない。
 そうかと言って、説明できないものだ(仏教で「不立文字(ふりゅうもんじ)」言葉では言い表せないという言葉がある)と言って、訳もわからず威張っているお馬鹿さんもいる。さらにそれをありがたがるお馬鹿さんもいる。
 道元禅師は、言葉では言い表し難い大宇宙の真理を何とか言葉で伝えようとされて、この現成公案をお書きになったと私は思っている。