正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案そのニ

 本文冒頭から混乱する。岩波文庫53ページ。全文を書くと長くなるので、私なりに抜き出す。まず「諸法(しょほう)の仏法なる時節(中略)生(しょう)あり、死あり」とあり、次に「万法(ばんぽう)ともにわれにあらざる時節(中略)生(しょう)なく滅なし」と出てきて、3番目には「仏道もとより豊倹(ほうけん)より跳出(ちょうしゅつ)せるゆゑに生滅あり」最後に「しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜(あいじゃく)にちり、草は棄嫌(きけん)におふるのみなり」もちろん、それぞれ立場が変わっている訳だが、有ったり無かったり、「?」である。
 西嶋氏は、四諦(したい)の考え方で説明している。諦は「明らかにする」ということで、断念するという意味でのあきらめるということではない。四諦とは苦諦(くたい)、集諦(しゅうたい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい)の四つ、苦集滅道(くしゅうめつどう)の四段階の論理。西嶋氏の四諦の考え方を私なりに次のように理解している。
 苦諦は「主観の立場」、集諦は「客観の立場」、道諦は「行動の立場」、道諦は「大宇宙の真実そのもの、現実そのもの」。
 四諦について西嶋氏以外の本も眺めた(立読み程度)が、よくわからん。
 苦諦について、人生、世の中は苦の世界だみたいなことが書いてある(あくまでも私が眺めた範囲です。念のため)。そうか?世の中の人は、そりゃあ苦しんでいる人もいるけれど、けっこう楽しく暮らしている人も多いんじゃないの?そもそも「この世は苦だ」ということに、同感できない。苦しんでいる人に「この世は苦だよ。私の教えに従えば楽になるよ」なんて言って、金を巻き上げようというためには使えるだろうけどね。苦から逃げ出すことだけが仏教の目的なら、そんなもんはつまらんと私は思う。生きてりゃ苦しいことがあって当たり前じゃないか。当たり前のことから逃げてばかりではしょうがないでしょう?たとえそれを「救い」なんて綺麗事の表現にしたとしてもだ。
 西嶋氏の言うように、主観的な立場で「ああしたい、こうしたい、ああなりたい、こうなりたい」と思っても、現実には中々実現しないから、苦しいというのなら分かる。ただ、苦だ苦だと言われてもねえ。西嶋氏は苦諦を「理想主義」ともしている。理想を掲げても実現しないから「苦」となる。私の関わってきた中で、「こうあるべきだ。こうしたい」と盛んに主張し思い通りにならないと投げやりになってしまう人間、不貞腐れてやる気を失ってしまう人間をずいぶん見てきた。私なりに思うのは彼らは主張はするが、現実的な対応策を考えていない、口先だけだったり、対応案を持っていても、まったく現実を見ていなくて現実から乖離しているため実際には実行できない、実行してもうまくいかないのは火を見るより明らかなものだったりすることが多いということ。逆に、ある程度の地位にあって自分がやりたいことを無理やり実行する人間もいる。これも現実をよく見ていないことが多く、部下は七転八倒した挙句に、失敗に終わることが多い。これらを「苦」というのならわかる。
 苦諦の立場では以上のようなことが起こる。もちろん理想を持つことは重要だ。しかし、理想を頭の中だけでこねくり回すのでは意味がない。そして頭の中の考えに引きずりまわされ、「面白くない、苦だ」といってみたり、暴走してみんなに迷惑かけたりする。ただ、人間はこの苦諦の立場をとることが多くある。
 「諸法の仏法なる時節」前回、「法」は仏教では「現実の世界そのもの」という意味と「この世の中を支配している決まり、規則」という意味があると書いた。ここでの「諸法」とはこの世の中のありとあらゆる存在(現実の世界にあるもの)、森羅万象ということらしい。森羅万象を、仏法すなわち釈尊が説かれた教えに従って見ていくと、生きている、死んでいるというという区別があると西嶋氏は提唱されている。原文では迷ったり、悟ったり、仏がいたり、普通の人がいたり、色々区別が出てくるとなっている。苦諦という立場で、森羅万象、この世の中を考えると、このようになる。
 最初のところで長くなってしまった。「万法ともにわれにあらざる時節」は次回にしたい。