正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その二十

 今、世界は地球上の人々は何を目指そうとしているのか、と思う。結局は国益であり、個人の利益の獲得ではないかと感じる。もちろん、利益は大事だと思う。西嶋氏も、利益をあげられない会社は社会から評価されていない(商品やサービスが評価されていない)ので経営が間違っていると提唱の中で言っておられる(悪徳商法は駄目に決まっているけど)。
 ただ、利益を得てそれをどうするのかに、会社の、個人の価値が表れると思う。物凄い豪邸を建てたとか、滅茶苦茶高い家具とか車とか衣装を買ったとか、正直「馬鹿だな」と思う。まあ、貧乏人の僻みと言われるだろうけど。所詮この世は妬みと嫉み(そねみ)とも言うし。
 テレビなどでも、セレブの豪邸紹介とか、しょっちゅうやっているところを見ると視聴率がいいんだろうね。みんなあのようなことが成功者だと思っているんだね。やれやれ。
 フランスのノートルダム寺院が燃えてしまったとき、有名な会社が巨額の寄付を申し出たら「そんな金があるなら俺たちに回せ」とクレームが殺到したらしい。そりゃそうだろう。富の蓄積が偏り、いわゆる「格差社会」と言われてるのだから。寄付を申し出た会社はそういうこともわからなかったのかね?お馬鹿さんですね。
 念のためだが、私は共産主義は支持しないので、書いときます。
 結局人間は何のために生きて、どこに行こうとしているのか。その方向を誤れば、人類滅亡もあり得ると思っている。
 道元禅師は以下のように書いておられる。
 岩波文庫45ページ「ふかく有為(うい)の功を執(しゅう)して、事相(じそう)の善をこのむ。かくのごとくのやから、たとひ坐禅すといふとも、たちまちに仏法を証得せむや」これは、道元禅師が想定問答を書いておられて、その問いのところ。この世の中で具体的な物質的な結果に執着して、上っ面の表面的な目に見える善いことを好むような奴らは、たとえ坐禅したとしても仏法を体得できるでしょうか?という問いである。今も昔も変わらないと言えば変わらないのだね。
 それに対する答えは46ページ「智によらず、ことばをまたず、かたりをまたず、たゞしこれ正信(しょうしん)にたすけられたり」かなり省略してしまっているが、「愚かな、下等な(と見られている)人々でも仏法、真理を体得している」という例を列挙されたうえで、上記のように書いておられる。これらの人達が仏法を体得できたのは、知識によるものではなく、言葉を読んだのではなく、話を聞いたのではなく、ただ正しく信じたこと=坐禅に助けられたのだ。
 要は、坐禅して正気になれ、人間本来の正気になれ、とおっしゃっていると私は思っている。見当違いなどうでもいいことをぐちゃぐちゃ言うのは、もうやめた方がいい。