正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十九

 頭の中で色々考えが渦巻いて、あるいは、あーでもないこーでもないと頭の中でこねくり回しているうちに、現実と頭の中の光景が区別できなくなってしまうという人が結構多いのではないか。私の周囲にも、事実関係は明白なのに、全く違う光景を見ているとしか思えない言動を取る人は珍しくない。知識はいっぱい持っている、勉強もできたらしい、でも現実が見えない。そういう人が偉くなったりする。知識の量とか、学歴というようなラベルの見栄えの方を世間の人は大事にしますな。下らないとは思うが、人の評価基準は難しいから仕方ないんだろう。でも、それだと危ないとは思うけどね。
 現実が見えてないけど、でかい声で「俺は正しい。こうすればよいのだ!」と言い続けると、案外通用しちゃったりする。それで悲劇(喜劇?)が起こる。こんなことを繰り返しているのが世の中という気もする。何だかなあ。
 もう頭でっかちはやめましょうや。この間プロゴルファーの岡本綾子氏が「悩むな。考えろ」と言っていた。悩むというのは頭の中でこねくり回すこと。考えるというのは、いろいろ考えてやってみるということらしい。この「やってみる」行動するということが大事であると道元禅師もおっしゃっている。
 岩波文庫44ページ「一向に坐禅辦道して、一知半解(いっちはんげ)を心にとゞむることなかれ」ひたすら坐禅坐禅するということは行動である)せよ、ちょっとばかりの知識とか、分かったような気持ちを心の中に置いておくな、つまり知識や中途半端な理解(したという気持ち)に振り回されるな、坐禅しろ、ということ。
 世の中「一知半解」の人が多いと思いませんか?よくそんなことをしたり顔で言えるもんだという人がたくさんいる。今は、「言ったもん勝ち」の世の中ではないか。子供っぽい、おこちゃまの時代という気がしてならない。
 もう少し、現実をしっかり掴んで、今何をなすべきか落ち着いて行動できる人が増えて欲しい。このままだと、上っ面な、子供じみた、ぎゃーぎゃーうるさい時代になってしまうのではないか(もうなっているかな?)。大人の時代になってほしい。そのためには坐禅が必要だ。
 大丈夫という言葉がある。仏教では自分自身を掴み自分自身を使いこなせる人のことをいう。大丈夫の時代を願う。