正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その二

 辦道話について書いていきたい。まずお断りしておくが、私は現代語訳や全文解釈はしない。そんな力もない。ただ正法眼蔵の中で私の印象に残った、語句、フレーズについて自分の経験、感覚、思いを書くだけ。正法眼蔵について全体を知りたい方は、文献にあたっていただきたい。

 私の持っている岩波文庫正法眼蔵」(水野弥穂子校注 1995年6月5日第12刷発行)の11ページに「自受用三昧(じじゅようざんまい)」という言葉が出てくる。西嶋氏によると、「自分自身を受け取り(自受)、自分自身を使いこなす(自用)境地(三昧)」ということだそうだ。これまで書いてきた私の体験からいえば、坐禅をしていて「自分は正しい。ただ状況は変わらない」と感じたことが自受で、「これまでどおり行動していく」と思ったのが自用なのかな、と思う。それが坐禅の中で出てきたのだから三昧。

 坐禅するまでは、いや坐禅を始めてもしばらくは、周りの状況の中で、ただただ、怒り、嘆いていただけの自分だったと思う。頭の中は、いろいろな考え、感情が入り乱れ渦を巻いていた。その頭の中の渦によって、現実の自分も混乱し、憤激し、疲れ切っていた。そこから、抜け出たことが「自受用三昧」なのかなと思っている。頭の中から離れ、現実の自分に出会ったという感じだろうか。坐禅の中で感じたことなので、上手く表現できないが。

 では、今の自分は常に自受用三昧かというとそんなことはない。常に身の回りに起こったことでおろおろし、落ち込んだり怒ったりしている。ただ、以前と比べれば、少しは落ち着いて現実を受止め、対処できるようになるまでの時間は短くなったとは思う。

 なお、ウィキペディアでは三昧について「サマーディの音写である三昧は、仏教やヒンドゥー教における瞑想で、精神状態が深まりきった状態のことをいう」とある。「精神状態が深まりきった状態」は私には何のことか分からない。何だか物凄いハイレベルな状態で、そのようになる人もいるのかもしれないが、私は私の状態で十分だと思っている。私なりに坐禅を続け、正法眼蔵を読んでいれば、「とんでもなく変なことはしない」と感じていて、それが私にとっての「三昧」である。