正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その三

 今回は岩波文庫の13ページ。「弘通(ぐづう)のこゝろを放下(ほうげ)せむ激揚(げきよう)のときをまつゆゑに、しばらく雲遊萍寄(うんゆうひょうき)して」のところ。

 弘通とは仏道が行き渡ることで、そのことが達成されて(放下)仏教が盛んになる(激揚)のときを待つために、しばらく全国を歩き回り(雲遊萍寄)、という意味らしい。

 雲遊萍寄というのは、過去の僧侶もやっていたことで、澤木興道氏も「宿無し興道」と言われていたとのこと。

 私なりに読むと、道元禅師は宗の国に渡り真の仏道を天童如淨(てんどうにょじょう)禅師から伝えられ、日本に帰国しているのに「待たなければならなかった」というのが、引っかかるところだった。真の仏道、仏教をすぐに布教できない状況だったのだろうか。

 既存の仏教の宗派から圧力があったとも読んだ。他にも色々事情があったのかもしれない。

 いずれにせよ、「待たなければならなかった」。

 ここは、おこがましいが、私の主張が事実として証明されたことと、重ねて読んでいる。時間が必要だったのだ。「ときを待たねばばならなかった」のだ。

 しかし、このあと、道元禅師は真に仏道を求める人々のために、この辦道話を書くことを決意したと書かれている。ここも、おこがましいが、私が主張し続けるとしたことと重ね合わせている。

 坐禅して正法眼蔵を読んで三十年経った今では、単に主著し続けるだけしか方法ない訳ではないこと、色々状況を、事実を、現実をよく「体感」して行動することも学んできたつもりである。

 それでも、あのときは主張し続けたことは正しかったと納得している。

 その裏付けは坐禅正法眼蔵なのだ。