正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その三十六

 岩波文庫131ページ「いまの知家非家(ちけひけ)、捨家出家(しゃけしゅっけ)《家、家に非ずと知りて捨家出家す》の学道、それ大小の量にあらず、遠近(おんごん)の量にあらず」
 現在の家(世間での生活)は、本当の家ではないと知って家を捨て出家して仏道を学ぶということは、大きいとか小さいとか尺度で測るものではないし、遠いとか近いとかの尺度で測るものでもない。
 仏道は絶対的なもので、他と比べるというような相対的なものではない。自分自身が自分自身として学ぶ、坐禅することだ。
 出家という問題がある。道元禅師は出家を薦められた(在家を否定はされていない)。世間で生きていれば、利得やら色んな思惑に巻き込まれて、それを始末しなければならない。仏道に専念はできないだろう。
 ただ、現在では出家して生活できるか?という問題があると思う。今、寺の経営は大変だと聞く。観光スポットにでもなっていれば別だろうけど、そうじゃなきゃ大変だろうなと思う。実際、特に地方では住職がいない寺も多いと聞く。出家して金策に悩まされるんじゃ困る。
 それと、私が正法眼蔵を読み始めたのは、このブログの最初の方に書いたとおり、組織の中で「真理・真実はなにか」と追い詰められたからだ。それがなければ正法眼蔵、仏教・仏道には、おそらく全く関心は生まれなかったと思う。生死を考えるくらいの状況を経験せずに宗教を信じるというのは、私には考えられない。
 宗教が国や民族の拠り所で、産まれながらにして宗教を信じる環境にある人たちもいるから、あくまでも個人的な意見です。
 共産主義は宗教を否定しているとか言うけど、共産主義思想自体宗教みたいに私には思える。私は馬鹿だから、本気で怒らないでね。
 生死を思うような追い詰められたことなしに宗教を信じるということは私にはできない。だから「正法眼蔵がなければ死んでいた」なのだ。
 怪しげな団体が「出家して財産を布施としてすべて差し出さなければ功徳はない」なんて言うけど、そんなことは宗教と関係無い。その団体の経営に関わっている人たちが贅沢三昧したいだけのことだと思っている。
 私は、生きるために世俗の生活をしながら、坐禅して仏道・仏教を学んでいこうと思う。それは私自身の絶対的なものであって、それ以外の何ものでもないのだから。