正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 摩訶般若波羅蜜その十三

 2年続けて親が死んだ。「生は一時の位なり、死も一時の位なり」と親の死は受け止めている。
 ただ考えさせられるのは、自分は死に向かってどのように生きていくのか、ということだ。
 体調も優れず、とにかく疲労感と倦怠感が短い周期でやってくる。医学的には問題はないという。メンタルの診察では自律神経失調症だそうだ。「坐禅したって駄目じゃないか」と言われるだろう。でも、私は坐禅にすがってようやく生きていられると思っている。
 常に元気溌剌、意欲に溢れ、行動的という人もいるだろうが、それはそういう種類の人種なのであって、みんながみんな、そんな風だったら、そんな世の中は私は気持ち悪い、気味の悪い世の中だと思う。
 自分がこの先どのように生きていくか。生活もしなければならない、そのためには収入が必要だ。
 このブログで正法眼蔵について書いていて、これは30年以上読んできた正法眼蔵について、自分なりに書き残しておきたいという「虚仮の一念」である。死ぬまでに全巻何らかのことを書いておきたいと思っている。
 この先、どのように生きるか、どのように死ぬか、坐禅が答えを出してくれるだろう。人生でたったひとつ、はっきり決まっているのは死ぬということなので。
 岩波文庫70ページ「仏薄伽梵(ぶつばがぼん)は般若波羅蜜多なり、般若波羅蜜多は是諸法なり。この諸法は空相なり、不生不滅(ふしょうふめつ)なり、不垢不浄(ふくふじょう)、不増不減なり。この般若波羅蜜多の現成(げんじょう)せるは仏薄伽梵の現成せるなり。問取(もんしゅ)すべし。参取(さんしゅ)すべし。供養礼敬(くようらいきょう)する、これ仏薄伽梵に奉覲承事するなり。奉覲承事の仏薄伽梵なり」
 仏薄伽梵とは釈尊のことだそうだ。釈尊は正しい智恵である。正しい智恵とはこの世界、森羅万象である。坐禅をしていると、この世界は真理だと感じる。そう感じた体で世の中で起こっていることを見ると、「これはおかしいな」と感じることがある。
 この世界、森羅万象は空相、つまり、ありのままである。ありのままというのは、言葉で「こうだ」と言い表せないものとも言える。「空」を「存在しない」としてしまうと私には到底理解できないものになってしまう。
 この世界は、付け加えるものもないし、減らすものもない。完全なものだ。私は質量保存の法則を思い浮かべたりする。
 穢れているとか、清浄だとか、頭の中でこねくり回すものではない。
 増えるとか、減るとか大宇宙のレベルでは関係ない。
 正しい智恵が現れるというのは、釈尊が現れるのと同じである。
 問いかけ、経験しなければいけない(坐禅しなければいけない)。
 仏道修行することは釈尊を敬い、釈尊の教えに従うこと。そして釈尊を敬い、教えに従うこと、そのことが釈尊そのものになることだ。
 釈尊は崇拝の対象として崇め奉るだけの存在ではない。坐禅していることは釈尊と同じ存在になるということだと私は思っている。その点が、他の宗教の「神」とは異なるところだと思う。
 だから、私は坐禅にすがって生きている間を過ごしていこうと思う。