正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 摩訶般若波羅蜜その一

 私は長年ずっと病院に通っている。病名は様々。中には原因不明、病名もわからんというものもいくつかあった。職場で倒れて救急車で運ばれたことも三度ほどある。
 お医者さんに不快な目に遭ったということはない。皆さん一所懸命に対応してくれたと思っている。
 だから、ここに書くことは不満とかクレームではない。そういうものだと私が個人的に感じたもの、感想なので念のため。
 前回書いたが、体調が悪いと無常を感じる。その不快感はその時の自分の世界を占拠してしまう。けれど、病気の本当の原因は何かとなると、これが、分からないものなんですね。医学は進歩していて、新しい治療法や薬も開発されているけど、まだまだ分からない領域もたくさんあると実感する。このことも、現成公案の中で書いた。
 正法眼蔵は凄いな、と改めて思っております。
 さて、以前書いたが、私は毎朝般若心経(摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみったしんぎょう))を唱えている。単なる習慣で、唱えることにご利益があるなどとは、これっぽっちも思っていない。何となく気持ちがいいので、坐禅の姿勢で唱えてから、坐禅に入っている。お寺の正式なやり方ではないかもしれないが、坐禅道元禅師がお書きになっているとおりにやっているのだから、これでいいと思っている。
 般若心経を唱えることに神秘的な力があるなどとは思わないが、般若心経は重要な経典である。だから、道元禅師も、正法眼蔵の一巻としてこの「摩訶般若波羅蜜(まかはんにゃはらみつ)」を書かれたのだと思っている。
 今回、ちょっと長くなりすぎたので、本題は次回からにします。すいません。