正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その二十

 色々と体にがたがきております。調子が悪いと通院、検査もしんどい。澤木氏が、体の具合が悪いと無常を感じるという趣旨のことを話しておられたと記憶するが、自分も実感してます。
 人間が生きているというのは、本当に細い線の上を綱渡りしてるのだということが、具合が悪くなったり、災害に遭ったりすると、思い知らされる。普段はまったく何ともなく過ごしているが、次の瞬間はどうなるかは分からないのだ。
 そして、今、とても辛くても、瞬間瞬間一所懸命に生きていく以外にやれることはない。そう自分に言い聞かせて生きております。生も一時の位なり。今は生きている状態なので、ただただ生きているだけ。
 さて、現成公案の最後のところ。岩波文庫60ページ「麻谷山宝徹(まよくさんほうてつ)禅師、あふぎをつかふ。ちなみに僧きたりてとふ。「風性常住無処不周(ふうしょうじょうじゅうにしてところとしていたらざるなきなり)。なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ」」宝徹禅師が扇を使っていると、ある僧が来て風はどこにでもあり、風が至らない処はないのに何で扇を使うのかと質問した。というのが引用の部分。そのあとは宝徹禅師は、お前は風性常住という理屈は知っているが、無処不周は分かっていないと答えた。僧が重ねて無処不周とは何かと問うと、禅師はただ扇を使うのみだった、と続く。
 つまるところ、空気は至るところにあるが、扇を使わないと涼しくはならないということ。行動(ここでは扇を使うこと)しない限り何も起こらない、行動がすべてということ。
 現成公案の巻には、色々なことが書かれているが、中心は行動に関することだと理解している。
 仏教は観念論ではなく、実際にこの瞬間の行動を問題にしている。
 おかげで、私は何とか生きていられると思っている。頭の中だけで、あれこれこねくりまわしていたら、おそらく頭が混乱しておかしくなってしまうと思う。頭(理屈)偏重は危ないけど、そういう傾向が今の世の中多いような気がしますな。