正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その十

 毎日殺人事件の報道がある。私は、坐禅している身心ならば人は殺せないと思っている。楽天的に過ぎると言われるだろうが、そう信じている。それが仏教、仏法だと思っている。人間は生まれてから、どんどんおかしなものが身に付いてしまう。だから、坐禅してそれらを振るい落として(身心脱落)、本来の姿(本来の面目)を取り戻す。「自己をならふ」のだと考えている。
 戒律の一つに不殺生戒(ふせっしょうかい)がある。人間は他の生命を犠牲にして摂取しなければ生きていけない。だから、この戒律は不必要な殺生をしないと理解するしかないと思っている。野菜、植物ならいいかと言えば、私はこれも殺生だと思っている。だって、植物は人間に食べられるために生えてきた訳ではない。野菜を育てるのに、育てたい植物以外は「雑草」と称して駆除している。作物を育てるのに、原生林を壊滅させ大規模な耕作地を作り、生態系をずたずたにしている。人間が食物を摂取して生きるためだ。
 どうしたって、人間は他の生物を犠牲にしなければ生きられないのだ。この厳然たる事実はきちんと認識すべき。
 よくテレビ番組でグルメレポートとかやっているが、お気楽なもんですな。今後地球上の人類が果たして食物を得ていけるのだろうか?今現在だって飢えて死んでいる人々がたくさんいるのに。
 さて、本題。
 生死(しょうじ)、生きること、死ぬことは重要なテーマ。だから正法眼蔵にも「生死」という巻がある。現成公案にも次のような言葉がある。岩波文庫56ページ「生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり」生きているというのも一つの状態、死んだと言うのも一つの状態。別々の状態。だから生きているときは生きているとして生きていればいい。死んだら死んだときとして死ねばいい。死んだらどうなるなんて、暇なこと、余計なことを考える必要はない。
 私はこの言葉が好きだ。人間誰にでも共通している唯一のことは「死ぬ」ということ。私も死ぬときはどうなるんだろうと考えていたが、坐禅しつつこの言葉を目にして、本当にすっきりした。
 生きているときはひたすら生きればいいんだ。死ぬときが来たら死ねばいいんだ。ただそれだけのことなのだ。