正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案手その九

 本題から外れるが、道路に空き缶が捨ててあった。近くの自販機のゴミ箱に持っていって捨てた。道にゴミを捨てて平気な国民がいる国は下等な国だと思う。ちょっとした山の中に「ゴミの不法投棄はやめろ」という看板を見ることもよくある。こういうことをする人間、日常生活をきちんと送れない人間がいる国は駄目でしょう。日常生活はいい加減だが、本当は素晴らしい人間だなんてことはあり得ない。
 「日本は国際社会に貢献する」おおいにけっこうだが、足下の暮らしがいい加減なのに、そんなこと言って大丈夫ですかね?
 さて、本題。
 岩波文庫56ページ「人の死ぬるのち、さらに生(しょう)とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生(ふしょう)といふ」
 よく輪廻転生(りんねてんしょう、りんねてんせい)という言葉があるが、道元禅師は、死んだらそれまで、そのあと生きるなんてない、とおっしゃっていると思っている。
 ちょっと古文の時間。ご存知かもしれないが、「しかあるを」の「を」は接続助詞で順接の確定条件。だから、死んだら生とならないので「生が死になると言わないのは仏法の決まった考え方」ということになる。
 極楽浄土に生まれ変わるというようなことは、道元禅師は否定されていると思っている。生きているときはひたすら生きればよい。生きている今の瞬間を生きればいい。瞬間瞬間生きればいい。授業で「諸行無常」という言葉を耳にした。この世は常に移り変わって儚いというような、虚しさみたいなニュアンスで教わった気がするが、本来は常に移り変わって行くのだからその瞬間を一所懸命生きればいい、というように積極的に考えた方がいいと思っている。さっき失敗しても今一所懸命やればいい、今上手くいっているからといって手を抜けば転げ落ちる、それが諸行無常なんじゃないか。
 「そのゆゑに不生といふ」これは生とか死とか頭で考えて区別する必要はない、だから生きるなんて敢えて言わなくてよい、だから不生。澤木氏、西嶋氏はラベルを貼る、レッテルを貼る必要はないと説明しておられる。生とか死とか区別する必要はない。死んだらどうなると考えたところで分かりはしない。ただ今の瞬間を生きればいいのです。