正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その八

 仏教を勉強する(修行する)のは、まず発心(ほっしん)つまり真実を知りたいという強い願いが必須だ。その上で、優れた指導者(善知識(ぜんちしき))に従って修行せよ、と道元禅師はおっしゃっている。私は、繰り返し書いているが、対人恐怖気味で、人間不信なので、他人に教わるということはしていない。その点、道元禅師の教えには従っていない。しかし、たとえ、優れた指導者に巡りあったとしても、修行し(坐禅し)大宇宙の真理を体得しようとするのは、その人自身だ。
 岩波文庫54ページ「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり」
 大宇宙の真理は自分の外側にあるのではない。自分自身も大宇宙の中の一つの存在なのだから、自分=大宇宙なのだ。澤木興道氏は「天地一杯」「宇宙とぶっ続きになる」という表現をされている。坐禅することでこの感覚を感じることができる(日本語として変かな?)。これが「自己をならふなり」だと思っている。
 知識の量が多いことに価値があるのではない。もちろん知識が無くて良いというつもりはない。しかし、知識があっても、行動、やっていることがおかしければ、その人は間違っている、だめな人だ。
 達磨大師から正伝された仏教、仏法は六祖大鑑慧能(だいかんえのう)禅師に伝わっていくが、慧能禅師は樵(きこり)をしていて発心し、五祖大満弘忍(だいまんこうにん)禅師に参じた人だという。慧能禅師は文字の読み書きができなかったので、行人(あんじゃ)として米搗き小屋で米をついていたが、弘忍禅師は慧能禅師の優れているのを認め、法を継いだ(嗣法(しほう))。経典をたくさん読めば大宇宙の真理を体得できるのではないということ。今は変に知識があることを重要視しすぎだ。いろんなことを知っているが馬鹿な奴は腐るほどいる。
 「自己をならふといふは、自己をわするゝなり」本当に一所懸命に行動しているときには、自分などと言うものは消えてしまい、ただひたすら行動している。日常生活は甘いものではない。一言、一つの行動が、大きなトラブルとなる、大事件となる、命に関わることだってある。そして、行動の瞬間瞬間では、自分を意識している暇などない。
 大体、自分が自分がと言っている人間にろくな奴はいないと思っている。褒められる、評価されると思うと、強引にでも(はた迷惑でも)やろうとするが、目立たない地味だが重要なことには全く興味を示さない奴を一杯見てきた、今も見ている。お前如きちっちゃなつまらん人間が「俺が俺が」とうるさい!としょっちゅう思っている。
 自分を忘れ、ひたすら一所懸命に行動するときは、大宇宙の真理によって行動しているときなのだ。「自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり」もちろん、その前提として坐禅している必要がある。