正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その七

 岩波文庫54ページ「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己を諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏(しょうぶつ)なり、仏を証しもてゆく」
 大宇宙の真理を体得した人=仏は、自分が仏だという感覚はない。「俺は仏だぞ」なんてことはない。だけど仏として毎日を体験し続けていく。
 私は、大宇宙の真理を体得するというのは、普通の人になること、当たり前のことを当たり前にできる人になることだと思っている。だから、威張ることではない。
 しかしまあ、世のなかには威張っている人の何と多いことよ。何だか滅茶苦茶なことを言ったりやったりしていて、周囲は迷惑していて、「馬鹿でしょうがない」と思っているのに、ご本人は「どうだ凄いだろ!恐れ入ったか!」と元気一杯、意気揚々としている。こういう人一杯いますよね?ある意味幸せな人だけど、はた迷惑。こういう人が組織の中で偉くなっちゃぅと大変だけど、そういうケースも多い。
 また、歳とって「俺はこんなことをしてきた立派な人だ」とか「長く生きているんだから自分のいうこと、やることは正しい」と思ったりやったりする人も多いね。「若いもんはだめだ」なんて。歳とることと人間として価値があるかは関係ない。今の瞬間何をしているかにしか人間の価値はない。山本夏彦氏が「年寄りの馬鹿くらい馬鹿なものはない」というようなことを書いていたと思う。そのとおりだと思う。長い年月で馬鹿が凝り固まっちゃってる。
 「自己を諸仏なりと覚知することをもちゐず」いい言葉だと思う。ごくごく普通に生きてそれが大宇宙の真理にかなっている。別な言い方をすれば、目立った言動をしない。普通のことを普通にするのだから目立つはずがない、ということだと思う。今は目立つことをする人がすごい人みたいになっているが、おかしなことだ。マスコミは「普通の人が普通のことをしてました」ではニュースにならないから、目立つ人を取り上げるしかない。それは仕方ない。でも、ニュースに取り上げられることと人間の価値はイコールではないことを分かっている必要はあると思う。それに国力というか、国として立派な国かどうかは、普通の人が普通のことを毎日こつこつやっているかどうか、そういう人が多い国が立派な国なのだと思う。普通のことを普通にやれる、それが仏なのだ。