正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その七十八

 岩波文庫173ページ「玄沙の道(どう)に、「火焔為三世諸仏説法、三世諸仏立地聴(かえんいさんぜしょぶつせっぽう、さんぜしょぶつりっちちょう)」といふ、これは火焔たとひ「為三世諸仏説法」すとも、いまだ転法輪すといはず、また三世諸仏の法輪を転ずといはず。三世諸仏は立地聴すとも、三世諸仏祖の法輪、いかでか火焔これを転ずることあらん。為三世諸仏説法する火焔、又転大法輪すやいなや。」

 玄沙師備禅師の言葉に「火焔為三世諸仏説法、三世諸仏立地聴」とある。これは炎が過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々のために説法するとしているが、釈尊の教え=法を展開しているとは言っていないし、また過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々が法を展開されているとも言っていない。過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々は立って炎の説法を聞いているとしているが、過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々が体得されている法を炎が転回するということがあるだろうか。過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々のために説法している炎が大宇宙の真理を展開しているかどうか。

 この後さらに道元禅師は解説を進められる。ここのところは、炎、過去・現在・未来の永遠の仏といわれる方々、転法輪、転大法輪の関係を色々な角度から問いかけておられる。

 私は、火焔も三世諸仏も法輪も大法輪も結局のところ1つのこと、つまり坐禅して大宇宙の真理と一体となって炎のように燃え盛っている日常生活を行動するということに行きつくと思っている。何回もおなじことを書くけど、この日常生活の瞬間瞬間をどう生きるかに人間の価値はかかっている。

 オリンピックの開会式の音楽の一部を担当したミュージシャンが過去のいじめの問題で辞任したという。

 ここで2つのことを思う。

 1つは、因果の法則。大宇宙の真理に反したことをすれば、必ずその結果を背負わなければならない。

 2つめは、しかし今この瞬間そのミュージシャンは大宇宙の真理に対してどのような態度なのか、ということ。

 過去の自分の行動の結果を背負うことと、今この瞬間の状態をごちゃごちゃにして論じていいのだろうか、という気はする。まあ、今の状態について事実確認はできないので何とも言えないけど。

 とにかく、私は坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動できるように努めるしかない。