正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その六

 岩波文庫54ページ「自己をはこびて万法(ばんぽう)を修証(しゅしょう)するを迷(めい)とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」
 前回書いたことと重なるところもあると思うけど読んでやってください。
 前半は、この世の真実、真理を知りたい、わかりたい、「悟りたい(この言葉はあまり使いたくないけど)」と探し回る、そのために迷うことになるということだろう。
 頭の中でわかりたいわかりたいと焦ってうろうろおろおろしている人は多いんじゃないか。会社でも、出世したい、評価されたいと、うろうろおろおろしている人は一杯いる。出世したい評価されたいという気持ちは分からないでもないが、それは本来結果であって「何をしたか」で決まるべき。出世、評価が目的になっちゃまずいんじゃないの?まあ、厄介な仕事からは上手く逃げ回って、上司に上手く取り入ってそこそこ出世してしまう人もいるのも事実だけどね。だけど、そんなことでは、組織にとっても個人にとっても、プラスにならないと思う。しかし「人間には馬鹿なことをする自由」があるのだから、しょうがない。
 今の世の中は「言葉が溢れている」。いろんな人がいろんなことを言い散らしている。そんなもんにいちいち、関わっていたら、時間がいくらあっても足りないし、ただ混乱していくだけだろう。そうして怪しげな奴に引っ掛かって、財産を巻き上げられたりする。
 そうではなく、「万法すすみて自己を修証するはさとりなり」なのだ。これは簡単に言えば坐禅すればいいということ。坐禅して大宇宙の森羅万象を、この世の中の色々なことを体感することによって、今の自分の状態を感得することができ、何をしたらよいか感得することができる。
 私は、感得したことに従っている。周囲と必ずしも一致しないこともあるが、そのときは(以前にも書いたが)時期を待つあるいは自分の考えで進むか選択する。これも坐禅によって体感、感得したことに従っている。
 周りから、あーしたらいい、こーしたらいいとごちゃごちゃうるさい世の中だ。そんなものを気にする、振り回されるのは、やめましょう。大体、偉そうにわーわーいう奴にろくな奴はいませんよ。ほとんど馬鹿な奴です。