正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案手その十一

 いつも思う。人間というものは、本当にどうしようもない存在だと。一方で人間を信じようとも思い続けている。
 本来、人間は大宇宙の一部、大宇宙の中の一部を人間の形に囲ったものだと思っている。だから、人間は大宇宙そのもの、素晴らしいもののはず。なのに、どうして、変てこな奴が一杯出てきてしまうのか?そもそも会話が成り立たない奴も多い。様々な技術、思想(?)は次々と出てくるが、人間は「普通」になっているだろうか?「普通」じゃないことが、「凄いこと」になってやしないか?大宇宙の真理を体得するというのは、当たり前のこと普通のことが普通にできること。今は普通であると評価されない世の中になっていやしないか。人と違う突飛なことをすることを評価する、相手より優れているとことさら強調すると評価される世の中なんじゃないか。普通の人が普通のことを毎日地道にやってこそ社会であり、その上にしか人類の未来はないと思う。
 岩波文庫56ページ「人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天(みてん、天全体のこと)も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる」
 人が大宇宙の真理を体得するというのは、例えば月を大宇宙の象徴だとし、人を水だとすれば、月が水に映るようなもの、水に大宇宙が現れている。月と水はお互いを邪魔しない。月は月としてあり、水は水としてある。そして共に大宇宙の真理そのもの。
 大宇宙の真理は広大な無限大なものだけれども、ごくごく小さな水滴に映る。人間はそのように大宇宙の真理を人間の小さな全身で一体とすることができる。これは坐禅によって実現する。この状態を「さとり」と表現できる。人間とは本来素晴らしいものなのだと思う。