正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その十二

 どう見ても大したことない、言っていることも薄っぺら、どこかで聞き齧ったようなことを堂々と言う時代だなぁ。言論は絶対に自由でなければいけない。だから、いい加減なことを言う人間を力で封じてはいけない。バッシングするなんて時間の無駄だと思う。
 俺が俺がと前に前に出ていくのが、良いこととされている時代なのでしょうね。
 だから、見聞きする側が、きちんとしていないとね。
 岩波文庫57ページ「身心に法いまだ参飽(さんぽう)せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すればひとかたはたらずとおぼゆるなり」
 法、大宇宙の真理を体得していないうちは「俺はわかった」と思うが、本当に体得すると、まだまだ足りないと思う、ということ。
 卑下しているのではない、謙遜しているのではない。普通にそうなるしかない。
 私もいくら歳を重ねても、まだまだ駄目だ。でも、引用した文章に励まされている。自分はずっと坐禅して正法眼蔵を読んでいけばで何とか生きていけると思っている。
 恐いのは「法すでにたれり」と思っている人。この人が「正義」の衣を身に付ける、権力を握ると本当に恐ろしい。正義の名の元に、残酷なことが行われたことは歴史上枚挙に暇がない。現代もそうだ。暴力は言葉の暴力を含め横行していると思う。正義の名の元に。少なくとも、暴力を振るっている当人にとっては「正義」なのだ。
 私は怒りが爆発したり、がっくりと落ち込んだり、繰り返している。怒ったり、落ち込んだりも現実に起こってしまったこと。それを抑制できることというのは、はっきり言って目標ではない。自分は、現時点ではそういう人間だということ。そこから、どうするかしかないと思っている。事実がそうなのだから、これからどうするかしかないです。