正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その十三

 「俺は分かっている。俺にはすべてがよく見えている。だから俺の言うこと、やることは正しい」と言う人はかなり多い。わかったようなことを言う人ならもっと多い。テレビのコメンテーターなんてその最たるものではないのかな?
 仏法、仏教の修行をしたら、何でも見える、何でもわかる人になるわけではない。繰り返し書いているけど、普通の人になるだけだ。普通の人になることが難しいんだけど。決して超人になる、超能力を身に付けるなんてことはない。
 そのことが以下に書かれている。
 岩波文庫57ページ「塵中格外(ぢんちゅうかくがい)、おほく様子を帯(たい)せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを見取会取(けんしゅういしゅ)するなり。万法の家風をきかんには、方円(ほうえん)とみゆるよりほかに、のこりの海得山得(かいとくさんとく)おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし」
 一般社会にも仏法の世界にも、色々な様子、状況があるけれども、修行していたとしてもその眼力、見える範囲、分かる範囲でしかない。分からない、見えてない世界があることが分かることが肝心。つまり万能なんてことはない。その人の見える範囲分かる範囲だけなのだ。当たり前と言えば当たり前。でも当たり前のことが分かるというのは、かなり難しい。偉い人が「こうだ!こうに決まっとるだろうが!!」と叫んでいることがある。そうか?と思うことが多いけど、偉い人だからねぇ、扱いに困りますよね。
 例えば、受験だとかテストだとかでも実力がないうちは「できたかも?」なんて思う。結果は駄目だけど。実力がついてくると「この問題は分かる。この問題は手に負えない」と分かるようになる。実力がつくというのは自分のことが分かるようになる、自分が分からないことが分かるということなのだろう。
 分かっていることと分からないことがあること、分からない、知らない世界があることが普通に分かることが大事なのだと思う。「あなたが知っているのはこの部分だけですよ」と教えてあげたい人は多いですよねえ。だけど本人は意気揚々。幸せと言えば幸せなんでしょうね。だけど、因果の法則で本人も周囲も良い結果にはならない。
 「万法の家風をきかんには」以下のところは、私の思うところで簡単に言えば、この現実の世界、大宇宙は複雑で無限大の広さと深さを持っているものだ。人間が分かるのは、ほんの一部分なのだと分からなければいけない、いや坐禅していれば、そのことは理解ではなく身体全体、身心全体で感じるものなのだ。
 前にも書いたが、坐禅していると大宇宙の中にちっぽけな自分がぽつねんと坐わっていると感じることがある。空から見下ろせば、小さな部屋の中で一人の人間が坐わっていて、その回りには無限大の大宇宙が拡がっている。
 人間は今目先のことがすべてになってしまい、そのことをやれば、全て善だと思い込む。今、声高に正しいと叫ばれていることが、本当に正しいのか?「参学眼力のおよぶばかりを見取会取するのみ」ではないのかな?