正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その十九

 今現在、私は親のことや自分自身の体調のことやらで、かなりへばってます。これも今の現実なので、これに一つ一つ瞬間瞬間対応してます。「あ、これ以上やると危ないな」と感じたら、やれる範囲だけにして、やれないことは、やれないので仕方ないと考えてます。
 正法眼蔵随聞記に載っている話に次のようなものがある。ある在家の信者が、「出家したいと思うが、年老いた母親の面倒をみなければならない。どうしたらよいでしょうか」と道元禅師にたずねた。道元禅師は、「出家すべきだが、何とか母親が心配ないような手立てをして出家できないものだろうか。」と返事をされた。今の状態を無視して、何がなんでも理想を追及せよとはおっしゃっていない。
 だから、自分もできる限りはやるけれど、無理となったら、やれる範囲でいいのだ、としている。道元禅師が聞いたら、「違うぞ!」と叱られてしまうかもしれないけど。
 ちくま学芸文庫正法眼蔵随聞記、水野弥穂子校注訳はいい本だと思ってます。古文の勉強にも役に立つんじゃないかな。
 話は変わるけど、毎日色んなことが起こりますなぁ。なんたら協会が揉めてますね。私の経験上、補助金とか助成金が出るところには、いかがわしい輩が集まって来ます。もちろん、本来公的なお金が出るということは、社会的に意義があることなのだけれど、使う人間の方が色々とね。でもこれを排除する手間とコストも大変なもの。人間がまともになるしかない。坐禅するしかない。
 難しいのは、本当はどうなんだ、ということ。坐禅していれば、変なことはしなくなる。けれど、何でも分かる、すべてが見えて、理解できる訳ではない。
 岩波文庫59ページ「証究(しょうきゅう)すみやかに現成(げんじょう)すといへども、密有(みつう)かならずしも現成にあらず、見成(げんじょう)これ何必(かひつ)なり」
 行動し体験し坐禅すれば、大宇宙の真理は現れる。だけどすべてが明白になる、現れる訳ではない。「何必」というのは、漢文で習う「何ぞ必ずしも○○ならんや」必ずしも○○ではない、を何必と道元禅師が表現されたもの。必ずしも現れるものではない、ということ。
 これまでも書いたけど、坐禅したからといって、超人にはならない。普通の人になるだけ。だから、すべてが分かるなんてことにはならない。逆に「すべては分かっていない」ことが分かる。これが大事だと思っている。ノーベル化学賞受賞者の方が「まだ謎だらけ」と発言していた。一所懸命取り組んでいれば、まだ分かっていないことがあることが分かるということ。自分は分かっている、自分は優れていると言ってるようじゃ本当の俗人。だから変なことをしてしまう。そんな風にならないことが大事なのだ。