正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その十八

 このところ書いていたなかったけど、毎日坐禅しなければいけないことをお忘れなく。
 今は頭の中中心の世の中、知識の量やうまく理屈をこねることができることが評価されていると思う。大事なのは、何回も書くが行動だ。その瞬間正しい行動(大宇宙の真理に適った行動)ができるかだけだ。
 報道で取り上げられていることを見ていると(これも繰り返しだが、報道が正しければだが)、やってしまったことを後から取り繕うことばかりやっているよね。第三者委員会大流行。第三者ってなんですかね?他人に見てもらわないと良いこと悪いことも分からないんですかね?これじゃあ、被害者と称している人たちも、加害者と称されている人たちも、みんなお馬鹿さんなんじゃないかと思えて仕方ない。みんな「自分は正しい」と叫んでばかりいるが、世の中の見方においては絶対的に正しいなんてことはある訳ない。その人の立場に立てば「自分は正しい」になるに決まっている。そこに、のこのこ「第三者です」なんて出てくる人も、本当に中立的、客観的なんですかね?
 人間、自分の始末は自分でつけるんでしょう。つけられなければ情けない。自分のことが自分でできないんじゃ「お子ちゃま」だ。お子ちゃまの時代なんだね
 そして仏教、仏法においては、瞬間瞬間正しいことができなければならない。坐禅していれば、正しいことしができるようになる。そのときのあり様はどのようなものか。
 岩波文庫59ページ「得処(とくしょ)かならず自己の知見となりて、慮知(りょち)にしられんずるとならふことなかれ」
 こういうことだなと分かっても(得ることができても)、それは必ず自分自身の知見、見方、考え方になって、理屈でわかると考えてはいけない。そのようなことはないと知らなければならない。
 つまり、頭で考えて分かったなんてことではない。
 どんなに立派な大学を出ても、どんなに成績が良くても、色んなことを知っていても、かっこいいことを言えても、だから自分はすごいということにはならない。すごいなんて思ったら(慮知)、それは仏法の外に出ている。大宇宙の真理の外に出てしまっているのだ。