正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その十七

 前回書いたことと似てるけど、「俺はわかっている」と言ったり、思っている人は多いと思いますな。「わかっている」から優秀だ、偉いのだと思っているのが見え見えの人は笑ってしまうくらいいますよ。
 人間の脳味噌は凄いところもあるけれど、ちっぽけでもある。いつも書いてるので気が引けるけど、大宇宙の中ではちっぽけなもの。だけど、そのちっぽけな存在が瞬間瞬間一所懸命行動している。そのとき、「俺はわかっている」なんて思っているとしたら、低次元。大宇宙の真理と一体、澤木氏のいう「天地一杯」「宇宙とぶっ続きになる」とはまったく違う。その人間の頭の中だけのこと。瞬間瞬間行動しているときはどんなものか?
 岩波文庫59ページ「これにところあり、みち通達(つうだつ)せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽(きゅうじん)と同生(どうしょう)し、同参(どうさん)するゆゑにしかあるなり」
 行動をしなければならない場面において、何をしなければならないかはっきり分かる(みち通達)。そして行動しているときは瞬間瞬間そのことを一所懸命やっているだけでしかない。だから、今何をしているのか、こうしたら誉められるとか、俺は偉いのだとか、そんなことはまったく消えている。ただ行動している。自分が何をしているのか意識していないのは、どうしてかというと、大宇宙の真理そのものの状態であり、大宇宙の真理がその瞬間生まれ、その瞬間同じ存在になっているからなのだ。
 自分で行動していないとき、他人の行動をあーだこーだ言うのは、それは簡単。しかし人間の価値はその人自身が何をするかにしかない。
 当然、客観的評価をすること、批判することも大事だが、そのことができたからといって、その人自身が正しいことができなきゃ、意味がない。
 今は評論家、批評家の時代だと感じる。好き勝手なこと言って偉そうに威張っていると評価されちゃったりする。
 これも繰り返し書いてるけど、普通のことを普通に瞬間瞬間行動していることが大宇宙の真理であり、行動しているときには、その行動が大宇宙の真理そのものであれば、「しるからざる」、自分で意識なんてしないのだ。ただ行動しているだけなのだ。