正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その八十五

 岩波文庫139ページ「平坦々地、それ壁立千仞(へきりゅうせんじん)なり。壁立千仞処、それ平坦々地なり。このゆゑに南州北州の面目あり、これを撿して学道す」
 日常生活、瞬間瞬間の行動しているところは平坦に見えるが、足を滑らせれは一瞬にして命を失う千仞の高さがある壁の上を歩いているのである。また、千仞の高さの壁の上が、まさに平坦に見える日常生活を送っているところなのである。このようなことであるから、須弥山の南側の国、北側の国それぞれにあるのだけれど、それぞれのあり方を取り上げて仏道を学んでいくのである。
 日常生活は、瞬間瞬間をどうするかの連続だ。うっかり「女性が参加する会議は時間が長くなる」なんて言った途端にくちゃくちゃになる。「ボランティアがやめたら募集すればいい」とか言って騒ぎになる。これまでどんなに偉かろうと、現在どんな地位にあろうと、問題は瞬間の行動だ。大宇宙の中では人間が考えている地位だとか、過去の功績だとか、意味はない。問題は今この瞬間に大宇宙の真理に即した行動ができるかだ。その瞬間瞬間の行動の積み重ねが仏道・仏教を学ぶということなのだ。
 日常生活を送るというのは、命懸けの瞬間の連続なのだ。だから日常生活は尊いのだ。無我夢中で必死に生きるしかない。
 人間が社会生活を行っていく上では種々の組織が必要だ。組織である以上、トップの責任者が存在するのは自然の理だ。問題は組織を構成する人々、その中からトップに選ばれる人が大宇宙の真理を体得できているかだ。そんな組織は現在地球上どこにも存在しないだろう。人間の小さな脳味噌で、利得や見栄や過去の習慣などに囚われて、おかしなことをしでかしてしまっている。
 女性差別が問題にされている。現実に起こっていることはそういうことだろう。ただ、根底は大宇宙の中では差別など存在しえないというところに到達しない限り、この問題は中々解決しないだろう。水面下に隠れ、あたかも平等だと振舞っていても、本当の所では全く理解してないなんてことは当面続くだろう。表面に出てきたら攻撃するの繰り返しが当分続くだろう。
 理念や理屈を唱えるのは大事だ。それに従って行動するよう社会が規制したり、監視したりせざるを得ないだろう。だけど、私には「対症療法」にしか思えない。坐禅して大宇宙の真理を体得する以外、真の解決はない。そう信じている。