正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その一

 岩波文庫140ページ「仏々祖々、いまだまぬかれず保任(ほうにん)しきたれるは即心是仏(そくしんぜぶつ)のみなり。しかあるを、西天(さいてん)には即心是仏なし、震旦(しんだん)にはじめてきけり。学者おほくあやまるによりて、将錯就錯(しゅうさくじゅさく)せず。将錯就錯せざるゆゑに、おほく外道に零落(りんらく)す」

 仏祖と言われる方々が、これまで全員が保ち伝えてきたのは「即心是仏」のみである。それなのに、即心是仏という言葉はインドではなく中国で作られたものであるから、仏道・仏教を学ぶ者の多くがなんのことかわからないために、「誤りをもってでも説明しよう」としない。そのようなことだから、多くの人々が仏教ではない教えに陥ってしまうのである。

 即心是仏というのは「心がすなわち仏である」ということではなく、人間は大宇宙そのもの=仏である、ということを四文字で表していると思っている。身心学道の巻にあったように、すべての存在は大宇宙そのものであり、その中で瞬間瞬間行動していくことが仏道・仏教を学ぶことである。だから「即」「心」「是」「仏」などと分けるのではなく、「即心是仏」一塊で受け止めるべきだと思う。

 「将錯就錯」は「あやまりをもってあやまりにつく」とでも読むのかもしれないが、これまでも書いてきたように、大宇宙の真理は「言語」「言葉」では表現できない。しかしそれでは、仏道・仏教を広め、人々を救済できないから、仏祖と言われる方々、道元禅師は苦心惨憺して伝えようとしてこられた。引用した部分は「そういう努力をしないから外道に陥ってしまうのだ」ということだと思う。

 「心」というと「精神」というように受け止めがちだ。特に宗教は精神的なものであって、肉体と精神を切り離す傾向があるように感じる。しかし、身=心=大宇宙であって、精神と肉体が別なものであるはずがない。魂とか霊魂とかいうものは、仏教にはない。この後に道元禅師が解説をされる。