正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その八十六

 岩波文庫139ページ「非想非々想の骨髄あり、これを抗(こう)して学道するのみなり」

 ものを考えない、ものを考えないということはないという仏道の真髄(坐禅の境地)があり、これを使って仏道・仏教をまなんでいくのみである。

 非想非々想というのは、仏教学の中では定義があるのだろうし、研究もされているのだろうけど、私は知らない。

 坐禅の境地と書いたけど、坐禅している時、色々な想念が湧き起こってくる。これは意識しているのではなく自然と湧き上がってくるのだ。もちろんいわゆる「無念無想」みたいな感じになるときもあるけれど、坐禅は「無念無想」を求めているものではない。道元禅師は、想念が湧いたら追っかけずに放っておけとおっしゃっている。沸き起こった想念をきっかけに色々考えてしまってはいけない。「あ、いかんいかん、考えてしまっている」と気づいてまた坐禅に立ち返ればいい。

 想念が浮かび上がってくるというのは、自分がいかに普段想念に囚われているかを知らされているのだと思っている。知らず知らずのうちに色々な想念が絡みついてくる、それを坐禅によって振り落す。振り落して「本来の面目」に立ち戻る。「本来の面目」とは、大宇宙と一体である自分の姿のことだと思っている。

 世の中で起こっていることを見ていると、いかに人間がそれぞれの想念、妄念と言ってもいいかもしれないが、それに囚われて色々しでかしているなあと思う。

 ミャンマー軍は自分たちが正しいという思いに囚われているだろうし、森さんや二階さんは自分が言ったことの何がおかしいんだという思いが根底にあるだろう。

 想念・妄念から解き放たれるというのは、頭で「解き放たれよう」と考えたってできっこない。「自分は正しい。自分は偉い」という想念・妄念に取りつかれている人を説得することはまず不可能だと思っている。だから現実には攻撃し、対立する。まあ今の人類のレベルでは仕方がない

 しかし、本当の解決策、想念から解き放たれる方法は坐禅しかない。

 身心学道の巻はこれで終了。この現実の身心を使って日常生活の瞬間瞬間を生きていく、大宇宙の真理に即して生きていく、それが仏道・仏教を学ぶこと。その前提として坐禅があるのだ。