正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その五十五

 岩波文庫134ページ「身学道といふは、身にて学道するなり。赤肉団(しゃくにくだん)の学道なり。身は学道よりきたり、学道よりきたれるは、ともに身なり」

 身学道というのは、この身体でもって仏教・仏道とは何かを学ぶのである。血の通った肉の塊である身体でもって学ぶのである。身体と仏教・仏道を学ぶというのは別のものではないから、身体は学ぶことによって初めて真の身体となるのだし、仏教・仏道を学ぶことでから身体が意味のあるものになるのである。

 要は坐禅した身体を使って行動する、そのことが仏教・仏道を学ぶことだということだと思っている。行動が肝心というか全てであって、頭の中の理屈ばかりこねくり回したり、喋り散らしたりすることに意味はない。もちろん理屈・論理も大切だが、行動が伴わなければ意味なんてない。

 仏教のこの「身体」「身学道」というのは、一般的な宗教学とは異なるのじゃないかと思う(ちゃんと勉強してませんが)。私も正法眼蔵を手にするまでは、仏教は坊さんが訳の分からない説法をするものだと思っていた。だから、自分の人生には関係ないと思っていた。しかし、坐禅した身心で行動することに意味があるのだと理解できてからは、人生そのものになった。行動すること=仏教・仏道を学ぶこと、これは重要だと思っている。

 何だか緊急事態宣言が出されるようだ。政府は後手後手だとか、東京都との調整が上手くいってないとか、批判が随分あるようだ。批判できるのは自由主義社会だから重要なことだ。ただ一方で、今そんな批判したところで何の意味があるのだろうとも感じる。仮に遅きに失したとしても、やらないよりはいいんじゃないか。批判のための批判みたいなものは時間の無駄という感じがする。まあ、この機会に意見を開陳して今後のビジネスや立場を有利にしたいという人もいるのだろうね。マスコミは政権が嫌いというのは毎度のことだし。それはそれで、やりたければやればいいと思う。

 民主主義なのだから、施策がそんなに駄目ならば選挙で結果が出るというのが正常なことじゃないの。

 私は坐禅して、普通に「平常心」で当たり前のことをやるだけだ。仏教・仏道は普通のことが普通にできることを目指す。それだけのこと。